もし織田信長が生きていたら

増田:次にうかがいたいことがあります。信長と秀吉は本当に拡張志向が果てしなく、海外も視野に入れていました。信長が生きていたら、さらに広げようとしたのではないでしょうか。

小和田:信長が生きてたら、朝鮮まで行ったのではないかと思います。

増田:家康は、貿易は行っているものの、朝鮮など海外まで領土獲得を目指して攻めていくことはしませんでした。この差はどこから来ているのでしょうか。家康は浄土宗を信奉しており、厚く保護しています。信長と秀吉に比べると、仏教観が強いのではないかと思いますが、それ以外にも考えられることはありますか。

【スペシャル対談】ケチで有名な徳川家康、知る人ぞ知る「天下人」の“学びになる面白エピソード”増田賢作(ますだ・けんさく)
歴史通の経営コンサルタント。小宮コンサルタンツ コンサルティング事業部長・エグゼクティブコンサルタント
1974年、広島市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、生命保険会社、大手コンサルティング会社、起業を経て、現在に至る。小学1年生のころから偉人の伝記を読むのが好きで、徳川家康などの伝記や漫画を読みあさっていた。小学4年生のとき、両親に買ってもらった「日本の歴史」シリーズにハマり過ぎて、両親からとり上げられるほどだった。中学は中高一貫の男子校に進学。最初の授業で国語の先生に司馬遼太郎著『最後の将軍』をすすめられたことをきっかけに、中学・高校で司馬遼太郎の著作を読破し、日本史・中国史・欧州史・米国史と歴史書も読みあさる。現在は経営コンサルタントとして経営戦略の立案・実践や経営課題の解決を支援するなど、100社以上の経営者・経営幹部と向き合い、歴史を活かしたアドバイスも多数実践してきた。本作が初の著作となる。

小和田:「厭離穢土欣求浄土」は、家康のスローガンです。「極楽浄土に往生する(生まれ変わる)ことを心から願い求める」という意味ですが、これは桶狭間の戦いで岡崎へ逃げ戻ったときに、大樹寺住職の登誉上人(とうよしょうにん)からこの言葉を教えられました。これが家康にとっての役目のテーマになったと思います。

織田信長には「天下布武」、つまり武家の天下を敷くという形があります。後を継いだ秀吉には「惣無事」、大名同士の戦いをやめさせ、それを治めた上に自分が立つという形があります。それでも領土拡張、天下一統のために、小田原北条まで滅ぼします。その点でいうと、家康は先を走っていた信長と秀吉のことを見ていて、領土問題で天下を取るというよりは、皆が互いにいい思いをするような何かがないかと考えて動いたのではないかという気がします。

先人の知恵を
本から学んだ家康

増田:現代風にいうと、信長や秀吉が中央集権的、中央の権力が非常に強いのに対して、家康はどちらかというと分権的な、皆で互いに繁栄すればいいという面が強いような気がします。

小和田:徳川幕藩体制はまさにそうです。各藩の地方分権もある程度、許容しました。どこで勉強したのかは分かりませんが、そのような面はあると思います。

増田:家康は、学ぶことも非常に好きだったと思います。

小和田:そうですね。家康は8歳から15~16歳まで、駿府の臨済寺で雪斎という今川義元の軍師に勉強を教わっていました。四書五経の『論語』や、さまざまな生活規範、あるいは人としていかに生きるべきか、リーダーとして、上に立つ者として何が必要かということを幼い頃に教え込まれました。そして、自分が偉くなってからも、学ぶ姿勢を持ち続けました。鎌倉時代を記した歴史書『吾妻鏡』が家康の愛読書といわれます。私はある本に「家康は本を読んで天下を取った」と書いたことがあります。まさに、先人の良い知恵を本から勉強して学んでいました。そこが家康のすごいところだと思います。

ふたりが認める「名君」とは?

増田:そのような面も含め、家康は非常に自制心が強い、自律する心が非常に強い人物だと思います。子どものとき、大人になってからも含め、どのような環境、どのような教育が家康をそのようにさせたのかということについては、小和田先生はどのように考えますか。

小和田:今でいう学校教育に当たるものは、雪斎から学んでいました。大人になってからは、何で学んだのかは分かりません。

増田:雪斎は、今川義元を育てています。桶狭間の戦いによって、義元はネガティブに語られますが、基本的には名君だと思います。

小和田:私も同じく、今川義元は名君だと思います。

※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)の著者と監修者によるスペシャル対談です。