「ハレルヤコーラス」など著名な名曲を多く残した音楽家ヘンデル。同時代を生きたバッハが当時の音楽家として正統派キャリアを歩んだとすれば、ヘンデルは実力主義的「やりたいようにやったるぜ」人生を送り、ビジネス展開力にもたけていたようです。その人生について、『会計の世界史 イタリア、イギリス、アメリカーー500年の物語』など多くの著書がある会計士で、音楽をこよなく愛する田中靖浩氏が分析します。

「近くて遠いライバル」――カール・ベンツとゴットリープ・ダイムラーはまさにそんな関係です。偉大なドイツ車メーカーの創設者であるのに、2人が出会った記録はありません。
年齢も出身地も近いのにすれ違っていた彼ら。しかし言葉を交わさずとも、彼らはお互いを高め合うライバルでした。

ヘンデルとバッハ――2人もまた「近くて遠いライバル」です。同じ年の生まれで100キロメートルしか離れていない街の出身。しかし2人はあらゆる点で異なっていました。ヘンデルは世界を飛び回って活躍、対してバッハは地元ドイツから出ませんでした。独身貴族のヘンデルに対して20人の子だくさんバッハ……。

今回は有名音楽家にして偉大なビジネスマンのヘンデルについてご紹介しましょう。彼は音楽家という「専門性の枠」に収まらない人物でした。

専門性とマネタイズは別物

マネタイズとグローバル戦略にもたけていた!「ハレルヤコーラス」で知られるヘンデルのビジネス展開力<希代の音楽家に「稼ぐ力」の秘訣を学ぶ:その3>ヘンデルの肖像画

「専門性を磨く」――誰もがそれを良きことだと思っています。専門性=スペシャリティの追求はときにブランド化と称されます。しかし、実際のところ「その専門性だけでは食えない」という切実さがあったりもします。

ひとつの専門性や資格で稼ぐ人がいる一方、たくさんの資格を取っても稼げない人がいます。どうやら専門性を高めることと、それをマネタイズする能力は別物のようです。

「専門性とマネタイズの能力は別物」。これは音楽の世界でも同じです。
会計や法律といったビジネス専門性でもマネタイズは難しいですが、嗜好品である「音楽」のマネタイズはさらに難易度が高いです。

だからこそ音楽家たちは「有力者に雇われる」ことで給金を得るわけです。音楽一家出身のバッハも自然と「雇われ」の道を歩みました。ただ、雇い主の無理解や自身の待遇にムカついて、別の雇い主のもとへ“転職”することがありました。そのあたりはかなり「熱い」人物だったようです。

一方のヘンデル、こちらはバッハのような正統派キャリアとはちがった、実力主義的「やりたいようにやったるぜ」人生を送っています。
大学で法律を学んだ後、親の反対を押し切って音楽業界に飛び込んだヘンデル。ハンブルクでオペラ劇場の仕事を見つけた彼は独学でオペラを学びつつイタリア語を習得、ついにはイタリアに留学します。大金を要するイタリアへの留学、どうやって資金を集めたかは定かではありませんが、ヘンデルがその種の“商才”にたけていたことはまちがいありません。

音楽家兼ビジネスマンのグローバル戦略

ヘンデルの音楽的な才能はイタリアの地で花開きます。4年間の滞在中にオペラをはじめ多数の曲をつくり、音楽の本場イタリアでも人気者となりました。
故郷に胸を張って凱旋帰国。イタリアでの評判を聞いていたドイツの人々も「オラが村のヒーロー」を熱い拍手で迎えます。しかし彼はすこしだけ滞在して故郷を去り、ロンドンへ向かいました。

活発な経済に沸くイギリス。格式張ったイタリアや権力者の強いドイツより、新興マーケット・イギリスのほうが「やりたいことがやれる」と考えたのでしょう。その狙いはズバリ当たります。ヘンデルは音楽家として良い耳を持つだけでなく、ビジネスにも鼻が利く人間だったのです。

イギリスでは革命などの動乱のせいで、王や貴族が楽団・劇場を所有する文化が根付かず、共同出資の形態で運営されていました。ロンドンでは「王ですらチケットを買って鑑賞する」チケット制が普及、裕福な市民たちもこぞって鑑賞に出掛けます。演目も貴族向けから一般市民向けまで幅広く、イタリア語と英語がごちゃごちゃになったオペラまで上演されていました。このような「なんでもあり」な街で、ヘンデルは大活躍します。さまざまな場所・観客に合わせて曲をつくり、のみならず自ら演奏会の興行まで行いました。

苦しいときこそ心に「ハレルヤ!」を

調子に乗りすぎてオペラ興行などに失敗、金銭的にダメージをくらい体調不良にも見舞われますが、幾多のピンチも驚異的な頑張りで乗り切ります。
「ヘンデルはもうダメだろう」と噂される、手痛い興行失敗の直後に宗教的オラトリオ「メサイア」によって復活、有名な「ハレルヤコーラス」で劇場は興奮に包まれました。

音楽家としてだけでなく、自らビジネスを指揮しての大成功は後輩たちにとってすばらしい「お手本」となりました。モーツァルトやベートーヴェンをはじめ多くの後輩たちは大いに刺激を受けたようです。

「ハレルヤ」はヘブライ語で「神をほめたたえよ」の意味です。経済的な危機、それまでの名声を失いかねないピンチのなか、ヘンデルはどんな気持ちでこの曲をつくったのでしょう。おそらくは「ぜったい復活してみせる」という強い信念であったと思います。降りかかる危機や嵐のような誹謗中傷に対して「負けてたまるか」という想い。

人間を成長させるものは成功の積み重ねより、何度でも失敗から立ち上がるしぶとさ――その想いは曲に乗ってイギリスの劇場だけでなく、多くの国で、長い期間、たくさんの人々を勇気づけてきました。

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル。美しさだけではない音楽の魅力を伝えつつ、両立させにくい「芸術とビジネス」を見事に両立させました。