上京して慶應大入学後はマージャン漬けの日々
プロ雀士との対局で「勝負の勘どころ」を学ぶ

 功を焦らず、コツコツと――。安田氏の起業家人生は、ブランドイメージであるおもちゃ箱のような派手さよりも、堅実という言葉がよく似合う。安田氏の半生を振り返ってみよう。

 1949年、岐阜県大垣市に生まれた安田氏は、保守的な地方都市を抜け出したい一心で、東京への進学を目指した。ところが、慶應義塾大学へ入学すると周囲のあか抜けた雰囲気になじめず、たった2週間ほどで大学から足が遠のき、マージャンに明け暮れる日々を送るようになった。このマージャンとの出合いは、安田氏の勝負強さにもつながっている。

 卒業後は小さな不動産会社に就職するも10カ月で倒産し、再びマージャン漬けの日々に。プロ顔負けのマージャンの腕前を生かして、数年間ほど生計を立てていた。この時、マージャンを通して「勝負を焦らない」ことの重要性を学んだという。

「プロ雀士との息詰まるような真剣勝負の中で、『運気の流れ』『勝負の勘どころ』などを見抜く力を身につけたと思っている。ツキのないときは無理せず『見』を決め込む。その姿勢が身についたおかげで、大やけどをせずに済んだこともたくさんあった」(『安売り王一代 私の「ドン・キホーテ」人生』安田隆夫著・文春新書)

 ところが、マージャンの腕が上達するにつれ、あまりの強さから敬遠されるようになり、次第に雀卓を囲む相手探しに困るようになっていった。そうして「打つ相手がいなくなり、収入源がなくなった」(安田氏)ことが、起業のきっかけとなった。

 1978年、29歳の時に西荻窪に雑貨店「泥棒市場」をオープン。倒産企業の処分品や廃盤品など訳ありの品を安く仕入れて販売したお店が、現在のドンキの原型だ。

 段ボールに入った在庫を店内に積み上げるスタイルは、ドンキ特有の圧縮陳列につながった。積まれた段ボールは外から見るだけでは中身が分からないため、手書きのPOPを大量に貼った。作業が深夜に及び、一人で店じまいをしている時にお客さんが来店した。その時、深夜マーケットの可能性を確信したことがドンキの深夜営業の始まりだった。

 その後、小売りの卸問屋を経て、東京都府中市にドン・キホーテの1号店をオープンした。連続の増収増益は、この89年の1号店オープンから継続している。