深夜営業、放火事件、圧縮陳列……
住民のバッシングも相次いだ
ドン・キホーテのオープン以降、もちろん常に順風満帆だったわけではない。
増収増益こそ続けてきたものの、取り巻く環境は時代ごとに変化してきた。最大の窮地は、90年代後半に勃発した深夜営業に反対する住民運動だ。当時、深夜営業をしていたのはコンビニエンスストアくらい。深夜までお店が明るい光景は、まだ珍しかった。
そんな中、深夜営業を強みとしていたドンキは、治安の悪化や騒音などを理由に地元住民からの反対に遭う。99年、ドン・キホーテ五日市街道小金井公園店に対して、地元住民が午前3時閉店から午後11時閉店への変更を申し入れた。「法律的にはなんら問題がなかった」(『安売り王一代 私の「ドン・キホーテ」人生』)ものの、反対運動は別の地域にまで飛び火していく。法律論を持ち出して強気の姿勢を貫くこともできたが、ツキがないと判断して「見」を決め、ブランドイメージの悪化を避けるべく営業時間の短縮を決断した。
また2004年には、さいたま市内の2店舗で立て続けに放火事件が発生。浦和花月店は店員3人が焼死し、店舗は全焼した。この時も、特有の圧縮陳列が延焼の原因ではないかと安田氏はバッシングの対象になった。
こうした混乱期を経て、00年代後半以降にドンキは急成長を遂げていく。
ドン・キホーテの全国展開に加えて、新たな成長の柱となったのは、総合スーパー(GMS)への進出と海外展開の2つだ。07年には長崎屋を買収。17年にはユニーの40%の株式を取得した(19年に残り60%も取得し完全子会社化)。
GMS市場への参入について安田氏は、過去の週刊ダイヤモンドの特集でこう語っている。
「ドンキを創業した当時、人口動態において若者が多かった。多くは車を持ち、インターネットは普及しておらず、また、男女の交際需要も旺盛だった。こうした中で、ドンキという場所は時間消費の対象となった。だが、時代とともにドンキの主要顧客だった若者が減り、さらに若者が車を持たず、男女交際に無駄な金を使わなくなった。ドンキだけでは規模拡大はできず、団塊ジュニアなどの中高年層にも対応していく必要が高まった」(『週刊ダイヤモンド』2014年5月31日号)
低収益に苦しむGMSに、ディスカウントストアのノウハウを移植して「ドンキ化」させたり、テナントで入る専門店を新規で独自開発したりすることで変貌させ、もうからないといわれてきたGMSを利益体質に変化させた。買収時に135億円の営業赤字だった長崎屋は、「MEGAドン・キホーテ」に姿を変えて主力業態の一つとなり、資本参加時に最終赤字だったユニーの営業利益率は、23年6月期には6.1%にまで改善している。
もう一つの柱である海外での戦略は、徹底した「日本推し」だ。15年にシンガポールでオープンさせた「DON DON DONKI」は、店内のほとんどが日本製品。店内には日本製品ばかりが並び、おなじみの音楽も流れている。まるで日本のお店かと見紛うような造りで一見すると駐在員が主要ターゲットにみえるが、高品質な果物などを中心に現地の人からの需要が強いという。
シンガポールでは15店舗を展開し、タイやマレーシア、香港、台湾、マカオにも店舗網を拡大。日本から直輸入の商品を集めた「ジャパンブランド・スペシャリティストア」として、業態を確立させつつある。
買収した北米ブランドと合わせると、すでに海外売り上げは3158億円で全体の売り上げに占める比率は16%を超えた。北米ブランドをドンキ流にアレンジするのはこれからで、30年の売り上げは現在の約3倍に当たる1兆円を目指している。