【老後】余命宣告を受けたら、人は何を考えるのか?
世界的名著『存在と時間』を著したマルティン・ハイデガーの哲学をストーリー仕立てで解説した『あした死ぬ幸福の王子』が発売されます。ハイデガーが唱える「死の先駆的覚悟(死を自覚したとき、はじめて人は自分の人生を生きることができる)」に焦点をあて、私たちに「人生とは何か?」を問いかけます。なぜ幸せを実感できないのか、なぜ不安に襲われるのか、なぜ生きる意味を見いだせないのか。本連載は、同書から抜粋する形で、ハイデガー哲学のエッセンスを紹介するものです。

【老後】余命宣告を受けたら、人は何を考えるのか?Photo: Adobe Stock

もし、あした死ぬとしたら、今までの人生に後悔はありませんか?

【あらすじ】
本書の舞台は中世ヨーロッパ。傲慢な王子は、ある日サソリに刺され、余命幾ばくかの身に。絶望した王子は死の恐怖に耐えられず、自ら命を絶とうとします。そこに謎の老人が現れ、こう告げます。

「自分の死期を知らされるなんて、おまえはとてつもなく幸福なやつだ」

ハイデガー哲学を学んだ王子は、「残された時間」をどう過ごすのでしょうか?

【本編】

余命宣告を受けたら、人は何を考えるのか?

「初めて会ったとき、死期を知ることができたおまえは幸福だと言ったが、正直に言えばあれは半分間違っている。たしかに、おまえは死期を知らされたことで、人生や自分の存在について考えるきっかけを得た。これ自体は、まぎれもなく幸運で幸福なことであろう。だが、ハイデガーの哲学に倣えば、そもそもとして『余命』などというものは存在しない」

「どうしてですか?」

「言っただろう、死は無規定である、と。つまり、いつ死ぬかなんて誰にもわからないのだ。だとすれば、『余命』や『死期を知る』という言葉そのものがハイデガーの哲学に反している。人間は、宣告された死期がくる前に死ぬかもしれないし、余命の期間を過ぎても生きているかもしれない―死は誰にも予測できないのだ。

 そして、このことは逆に言えば、いつでも、この瞬間にでも、死が起こりうることを示している。が―人間はその明らかな事実からも容易に目をそむける。『余命が三日だ』と言われてなお『まだ三日は死なない』と捉えてしまう。違う! まさに今この瞬間にも人間は死ぬかもしれない! いつでも死にうる存在なのだ!」

 私は、余命を宣告されたことで他の誰よりも死を知っているものだと思っていた。だからこそ、難解とされるハイデガーの哲学であっても自分になら理解でき、そして死の間際、天啓のようなものを受け取って何らかの救いが得られるのではないかと思っていた。

 だが、実際には違った。そうではなかった。私は余命を宣告されてまでも、まだ自分は死なないのだと……、少なくとも今日ではない、明日ではない、という意識を持っていたのだ。もしかしたら、私は「ハイデガーの哲学を理解するまで死は訪れないはずだ」と思い込むための道具として、彼の哲学を利用していただけなのかもしれない。

「今、この瞬間に人間は死ぬ存在である」

「そうそう、これも言っておこう。ハイデガーが分析した死の特徴について、こんな反論を思いつく人もいるかもしれない。『死はいつ起きるか誰にもわからないと言うが、人間は自殺によって自分の死を決められるじゃないか』と。残念だが、それもひとつの思い込みだ。

 たとえば、ある人が自殺しようと決断し、死期は自分で決められると主張したとしよう。だが、彼は自殺の準備をしている最中に、もしくは、そう主張している瞬間に、自分が死ぬという可能性をまったく考慮していない。何度でも繰り返し、はっきりと言っておくが、人間はいつでも死にうる。それは、まさにこの瞬間においてもだ。いいか若者よ、ハイデガーの言う『死の先駆的覚悟』とは、いつか来る死を想像して備えよ、という話ではない。今、この瞬間に人間は死ぬ存在なのだという事実を真っ向から受け止めろ、という話なのだ」

 今まで先生の話で憂鬱な気持ちになったことが幾度となくあったが、今回の話が一番であった。

 すべて先生の言う通りだった。

 先生との奇跡的な出会い。これには、きっと何か意味がある。だから結果のようなものが得られるまでは、この私の物語にはまだ終わりは来ないだろう―そう思っていた。

 ようするに、私はいまだに自分を特別な存在だと無意識に思っていたのだ。

 だが……違う。

 私は世界から特別に配慮された存在ではない。サソリの毒の傷跡が破裂すれば死ぬ―唐突に、何の脈絡もなく、あっけなく、ただ死ぬ。それだけの存在なのだ。

 そんな当たり前のことから、私は目をそむけていた。余命を宣告されて、なお、死から逃げていたのだ。

「すみません、このあと約束がありますので……」

「そうか、では今日はここまでにしようか」

 私は、震える足を引きずりながら逃げるように森を去っていった。

(本原稿は『あした死ぬ幸福の王子ーーストーリーで学ぶ「ハイデガー哲学」』の第5章を抜粋・編集したものです)