「学校では習わなかったやばいエピソードを知って、歴史が好きになった」
子どもたちからこんな感想が寄せられているのが、「すごい」と「やばい」の両面から日本史の人物の魅力に迫った『東大教授がおしえる やばい日本史』です。本書の監修をつとめた東京大学史料編纂所教授の本郷和人先生によると、学校の歴史の授業で出てくる「すごい」偉人たちも、実はものすごい失敗をしたり、へんな行動をしたりした「やばい」記録がたくさん残っているそうです。子どもだけでなく、大人からも「子どものときに読んでおきたかった」「偉人の人間くさい一面が知れて親近感がわいた」との声が続出し、親子で楽しく読めると話題になっています。今回は、本書より一部を抜粋・編集して、徳川家康の「恥ずかしいエピソード」を紹介します。
戦略に長けていた家康
「たぬきオヤジ」とよばれた徳川家康。人をだます妖怪だぬきのように、ずるがしこかったからです。
「本能寺の変」で織田信長が死んだあと、豊臣秀吉の家臣になった家康は、家臣のトップ5の五大老にまでのぼりつめます。家康は秀吉から「息子の秀頼を頼む」とお願いされますが、秀吉が死ぬとコロリと態度をかえ、有力な大名たちと親戚になって徳川家の味方を増やしていったのです。
これに怒った石田三成が挙兵し、天下分け目の「関ヶ原の戦い」がはじまりました。戦いは最初、三成側が有利でしたが、家康が根回しをして小早川秀秋を寝返らせたことで大逆転。見事に家康は勝利を手にします。
新しい天下人となった家康は、天皇から征夷大将軍の位をもらい、江戸幕府を開きます。
すると今度は秀吉の息子・秀頼がじゃまになってきました。そこで秀頼がお寺へ奉納した鐘に「国家安康(国が平和でありますように)」と書かれていることに目をつけて「家康の字がまっぷたつだ! これは反逆だ!」と、いちゃもんをつけて豊臣家に戦をしかけました。
この大坂の陣では、味方の少ない豊臣軍はやられっぱなしで、秀頼は母の茶々とともに大坂城で自害し、豊臣家はほろびました。
たぬきオヤジの家康ですが、じゃま者をしっかり消し去ったおかげで、江戸時代はとても平和な時代になりました。
家康はなぜうんこをもらしたのか
織田信長が室町幕府の15代将軍・足利義昭と対立していたときのこと。織田家と仲良くしていた家康も、ともに戦うことになりました。
不運にも家康は「三方ヶ原の戦い」で、義昭に味方する武田信玄と真っ向から戦うはめになってしまったのです。
29才の若造の家康に対し、相手は戦国最強の武田軍。当然まったく歯が立たず、1000人以上の死傷者を出してしまいます。自分の身代わりになった部下が次つぎと死んでいくのを横目に、家康は必死で逃げまくりました。その恐怖たるやすさまじく、家康は途中でうんこをもらしてしまいます。
ようやく浜松城に帰ったとき、家康のよごれたおしりを見た家臣が「殿、ビビってうんこをもらしたのですな! なんと情けない!」とさけんだので、家康は「こ、これはクソではない! 腰に付けてた非常食のミソじゃ!」と言ってなんとかごまかしました。(いや、くさいし、たぶんごまかせてませんが……)
家康はこのときの情けない顔とへんなポーズをした肖像画を描かせました。あえて絵に残すことで、恥ずかしい経験をバネにしようとしたんですね。さらに家臣には「よごれが目立たないように、白じゃなく黄色のふんどしを使うといいよ」とアドバイスまで与えました。
うんこもらしまで教訓にするとは、さすが後の天下人! まことにあっぱれです。
人は「すごい」と「やばい」でできている
何か「すごい」ことを成しとげた人は、歴史に名前が残ります。でも「すごい」だけの人なんて、この世にひとりもいません。
むしろ、ものすごい失敗をしたり、へんな行動をしたりして、まわりから「やばい」と思われているような人が、誰にもできない偉業をやってのけていることもあります。
いろんなことを考え、行動し、ときに失敗し、そこから学び、たまに成功する。カッコいい一面もあれば、ダサい弱点もある。だからこそ、人は面白いのです!
(本稿は、『東大教授がおしえる やばい日本史』から一部を抜粋・編集したものです)
東京大学史料編纂所教授。東京都出身。東京大学・同大学院で石井進氏・五味文彦氏に師事し日本中世史を学ぶ。大河ドラマ『平清盛』など、ドラマ、アニメ、漫画の時代考証にも携わっている。おもな著書に『新・中世王権論』『日本史のツボ』(ともに文藝春秋)、『戦いの日本史』(KADOKAWA)、『戦国武将の明暗』(新潮社)など。監修を務めた『東大教授がおしえる やばい日本史』はシリーズ78万部。