「仕事が遅い部下がいてイライラする」「不本意な異動を命じられた」「かつての部下が上司になってしまった」――経営者、管理職、チームリーダー、アルバイトのバイトリーダーまで、組織を動かす立場の人間は、悩みが尽きない……。そんなときこそ頭がいい人は、「歴史」に解決策を求める。【人】【モノ】【お金】【情報】【目標】【健康】とテーマ別で、歴史上の人物の言葉をベースに、わかりやすく現代ビジネスの諸問題を解決する話題の書『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗、島津斉彬など、歴史上の人物26人の「成功と失敗の本質」を説く。「基本ストイックだが、酒だけはやめられなかった……」(上杉謙信)といったリアルな人間性にも迫りつつ、マネジメントに絶対活きる「歴史の教訓」を学ぶ。
※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。

【歴史に学ぶ】経営トップの「やっかいな横やり」にどう対処するか?Photo: Adobe Stock

このままだと植民地にされる
という危機感

島津斉彬(1809~58年)は、幕末の薩摩藩(鹿児島)の藩主。西洋への興味が強かった曾祖父・島津重豪(1745~1833年)の影響を受け、青年期より欧米の学問に興味を抱く。父親との対立から、長いこと藩主の地位を承継できずにいたものの、江戸幕府の後押しもあり40歳過ぎに藩主となった。藩の富国強兵を進め、軍艦の建造、工業化の推進など、当時としては先進的なとり組みを進める。その一部である史跡・旧集成館は現在でも鹿児島市で見ることができ、世界文化遺産にも登録されている。有能な人材の抜てきも進め、西郷隆盛(1827~77年)は斉彬に抜てきされたことが、世に出るきっかけとなった。黒船の来航(1853年)以降、海外からの脅威に対抗するため、幕府と藩でバラバラな幕藩体制から日本を1つにすることが必要と考え、中央への政治参加を目指したが、井伊直弼(1815~60年)らの幕府保守派に阻まれる。これに対して、武力による政治参加を目指そうとするが、その直前に急死。その志は、弟の島津久光(1817~87年)や、藩士である西郷隆盛や大久保利通(1830~78年)に引き継がれ、明治維新につながっていく。

幕末の薩摩藩主で名君と評される島津斉彬は、青年期からヨーロッパの学問や国際情勢に興味を抱いていました。

日本が産業面で欧米列強に後れをとっていること、このままだと植民地となる恐れがあることを認識していました。

そのため藩主になる前から、日本が1つにまとまり、産業を興して豊かな国(富国)に生まれ変わり、国を守るために軍備を強化(強兵)すべきだと考えていました。

父親でトップの
やっかいな反対

もちろん、産業を興すといっても、そう簡単なことではありません。先行投資が必要になりますから、失敗したり、ある程度早期に資金回収できたりしなければ、薩摩藩の財政を悪化させかねません。そのため、藩内には強硬な反対派がいました。

反対派の存在は、斉彬が藩主になることを遅らせ、お家騒動にまで発展したのでした。

何よりやっかいだったのは、斉彬の父親で薩摩藩主の島津斉興(1791~1859年)が、反対派の中心人物だったことです。

盟友と連携して
トップを引きずり下ろす

その背景として、斉興の祖父である島津重豪が蘭学(オランダ語による西洋の学問や技術)に没頭するあまり藩の財政が悪化したこともあって、斉彬も重豪同様に財政を悪化させるのではないかという懸念があったのです。

しかし、海外の脅威を感じ始めていた江戸幕府は、富国強兵を進める斉彬を支持し、反対派の斉興に引退を勧告しました。そして、斉興は引退し、斉彬が薩摩藩主を継ぐことになったのです(1851年)。

この斉興への引退勧告は、斉彬が幕府の老中である盟友の阿部正弘(1819~57年)と連携して画策したものとも考えられます。

トップ交代で
先進事業に着手

斉彬が薩摩藩主に就任すると、産業興しに着手します。これは鹿児島湾に面する「集成館」というところで進められたため、「集成館事業」とも呼ばれています。

工場を建設して、製鉄・造船・紡績といった領域に力を入れ、大砲の製造から洋式の船の建造、武器・弾薬から食品の製造、ガス灯の実験なども行われ、日本初となる蒸気船もつくられています。

集成館事業は、斉彬の死により一時縮小しましたが、その後、薩摩藩と友好関係を結んだイギリスの協力のもと再度立ち上げられ、イギリスやオランダから最新機器を導入した工場を建設するなど、日本の近代化に向けた殖産興業が進みました。

明治日本の
産業革命遺産

集成館事業は2015年に「明治日本の産業革命遺産」として世界文化遺産に登録されました。

1865年竣工の機械工場は構成資産の1つで、博物館「尚古集成館」として公開され、庭園内には構成資産の「反射炉跡」も残っています。ちなみに私もその地を訪ね、斉彬のとり組みに思いを馳せました。

※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。