「死ぬのが怖い」の正体とは? 20世紀最大の哲学者の答え
世界的名著『存在と時間』を著したマルティン・ハイデガーの哲学をストーリー仕立てで解説した『あした死ぬ幸福の王子』が発売されます。ハイデガーが唱える「死の先駆的覚悟(死を自覚したとき、はじめて人は自分の人生を生きることができる)」に焦点をあて、私たちに「人生とは何か?」を問いかけます。なぜ幸せを実感できないのか、なぜ不安に襲われるのか、なぜ生きる意味を見いだせないのか。本連載は、同書から抜粋する形で、ハイデガー哲学のエッセンスを紹介するものです。

「死ぬのが怖い」の正体とは? 20世紀最大の哲学者の答えPhoto: Adobe Stock

もし、あした死ぬとしたら、今までの人生に後悔はありませんか?

【あらすじ】
本書の舞台は中世ヨーロッパ。傲慢な王子は、ある日サソリに刺され、余命幾ばくかの身に。絶望した王子は死の恐怖に耐えられず、自ら命を絶とうとします。そこに謎の老人が現れ、こう告げます。

「自分の死期を知らされるなんて、おまえはとてつもなく幸福なやつだ」

ハイデガー哲学を学んだ王子は、「残された時間」をどう過ごすのでしょうか?

【本編】

身近な人が亡くなったら、あなたは何を感じますか?

「赤子はみな王様―いや、子どもだから王子と表現しようか。人間はみな、他者があれこれと世話を焼いてくれる幸福な王子としてこの世に生まれてくる。そして成長と共に道具体系を学び、あらゆるモノが『自分のため』の道具として世界に現れてくるわけだが、もちろん親ですら彼にとっては道具的存在にすぎない。まさに世界の中心―万能感あふれる存在だ。

 だが、そんな彼も、しだいにその万能感を失う。なぜなら、自分と同様に『他者もまた、自分を道具として見ている』ことに気がつくからだ。こうして彼は、自分が中心であるという感覚を失い、いつしか道具体系の中に自分の存在を位置づけるようになる。靴屋、仕立て屋、教師、父親、母親―様々な社会的役割を引き受ける、もしくは引き受けられないことにみじめさを感じたりするわけだが、いやいや、そもそもそうした自己の道具化が倒錯した勘違いなのだ。なぜなら、現存在はスプーンやフォークなどの道具的存在ではないからだ!」

 現存在を人間と言い換えるのも忘れて、先生は興奮気味に叫んだ。

 私はひどくショックを受けていた。「他人を道具として見ている」というハイデガーの洞察。私はそんなふうに他人を見ているつもりはなかった。さすがに誰だって自分のことを「他人を道具扱いしている薄情な人間」だと思いたくはない。

 だが、実際に周囲の人間が死んだとしたら、きっと私は「割れた食器を取り換えるぐらいの感覚」で何事もなく代わりの人間と関係を結ぶだろう。そう考えると、ハイデガーの主張は決して否定できないように思えた。

 また、私は自分自身を道具だと思っているつもりもなかった。なぜなら私は王子であり、他よりも特別でむしろ高貴な存在だという自負があったからだ。しかし、そんな自分であっても死んだとなれば―先ほどの話と同様、きっと周りは「割れた食器を取り換えるぐらいの感覚」で代わりの人間を国の後継者として用意し、何事もなく国家を運営していくだろう。

 つまり世界は、私と無関係に続いていく……。

 ここで問題なのは、私自身がそうした死後の状況を容易に想像でき、しかも、そんなものだろうと思ってしまっていることだ。

なぜ「死」が恐ろしいのか?

 それはつまるところ、私が自分自身をかけがえのない存在だとは「思えていない」ことの証拠であり、すなわち―「私は自分自身を道具的な存在(交換可能な存在)として見ている」ということになるわけだが―ああ、そうか。まさに死の恐ろしさはそこにあったのだ。

 私は今、自分の中に起きた理解を整理することにした。

①「死によって私が消えた世界」を思い浮かべてみた。

② すると、何事もなく世界が続いていくことが想像でき、いかに私が「交換可能な存在」であったかが思い知らされてしまった。

③「交換可能な存在」ということは、いくらでも代わりはいるのだから、私は本質的に「この世にいなくても良い存在」であり、無価値で無意味な存在にすぎない。

 なるほど、死は「私の道具性(代替可能で本質的には無価値なモノ)」という非情な現実を突きつけてくるから、こんなにも恐ろしいのだ。

 死は、せっかく忘れていた「私の道具性」を思い出させてしまう。死は、私という存在がスプーンやフォークのような「取り換え可能な道具のひとつ」にすぎず、最後は壊れてゴミ箱に捨てられ、誰にも省みられず、ただ消えゆくだけのモノにすぎないことを思い出させてしまうのだ。

「ふむ、ひと雨くる前に今日はこのへんにしておこうか」

 先生は、空を見上げながら唐突にそう言った。もしかしたら、死の恐怖を思い出し青ざめたまま立ち尽くしている私を気遣って言ってくれたのかもしれない。気力を失った私は、小さく「そうですね」と呟き、その場から立ち去ることにした。

 雨は降らなかった。だが濁ったような灰色の雲は一向に晴れることはなく、どこか遠くで稲光の音が聞こえた。

(本原稿は『あした死ぬ幸福の王子ーーストーリーで学ぶ「ハイデガー哲学」』の第3章を一部抜粋・編集したものです)