たとえば、三島由紀夫の文章は美しくて教養にあふれていますが、三島が評価されているのはそれが理由ではなく、彼自身の深いところから言葉が出てきているからこそ評価されているんだと思うんです。
その三島が最も恐れたのは深沢七郎で、深沢は言葉的には、三島に比べるとずいぶん土臭いですが、しかしそれがかえって人間の根源的な部分に届いている気がします。三島はそれを恐れたんだと思います。
ありきたりな結論から
遠いものが「上手い文章」
――吉村さんにとって、うまい文章とはどういう文章ですか。
僕自身は「予定調和」に陥らないことに気を付けています。予定調和というのは「当たり前」ということです。たとえば「親を大切にしよう」とか、「人には親切にしましょう」とか。
一見正しいんだけれども、そこにはこれが「普通」でしょという一種の押し付けがあるかもしれない。「普通」が一種の暴力として作用することもあると思うんです。親に大切にされていない子供に、親を大切にしろと言うのは一種の暴力ではないか、とか。
そういう「普通」というものが持つ暴力性に抗うというか、文章を書くときにはそういうことを大切にしていて、普通の側に立ちすぎないということは心がけています。
だから、僕は文章のうまい、ヘタというのはあんまり問題にしないですけど、もしその人の文章を読んで、ありきたりな結論からは遠いことを書いているなと思ったときに、この人は文章がうまいなと思います。それは技術的なものではなく、「正確」に書いているかどうかだと思います。
――「正確」とはどういう意味ですか。
最大公約数、無難なことというのは「不正確」なんです。正確に書いてない。小山田浩子さんや津村記久子さんがよく使う言葉で、「本当のことを書く」というのがあります。「正確に書く」というのは、「本当のことを書く」ということだと思います。
「本当っぽい」ことはつまらないんです。ただ、「本当」のことというのは、時に過激で、時に美しくない。でも、そういう文章のほうが「正確」で、僕はうまい文章だと思っています。
吉村萬壱(よしむら・まんいち)
1961年生まれ。大阪府出身。大阪府立佐野支援学校に勤務しながら執筆活動を行い、97年『国営巨大浴場の午後』で第1回京都大学新聞社新人文学賞受賞。2001年『クチュクチュバーン』で第92回文學界新人賞受賞。03年『ハリガネムシ』で第129回芥川龍之介賞受賞。