ここで名指されている教皇は、時代から推し量るにおそらくインノケンティウス8世(在位1484-92年)で、「贖宥が与えられる」とあるからには、贖宥状(免罪符)として売買されていたものと推定される。
15世紀後半から16世紀初めにかけて贖宥状が乱発されたこと、そしてそれがルターによる宗教改革のひとつのきっかけになったことはよく知られているが、この傷の絵は、そうしたもののひとつだったのだろう。キリストの傷に「口づけ」することは、罪の赦しを請い願うことでもあったのだ。
中世の巡礼者たちは女性器に
護られつつ聖地の教会を目指した
女性器としてのキリストの傷に関連してさらに面白いことに、それが護符のような役割も果たしていたらしいことを証言する例が比較的豊富に伝わっている。
巡礼者たちが旅のお守りとして身に着けていた鋳造のバッジに、ほかでもなくこの図像が使われているのである(Reiss)。そのひとつ(5-3、14世紀頃)では、外陰部としての傷が、まさしく巡礼者のいでたちで表わされている。巡礼の帽子をかぶり、右手に杖、左手にロザリオをもっているのである。
こうして女性器に模したキリストの傷のバッジを身に着けることで、中世の巡礼者たちは旅の安全を祈願しつつ、聖地の教会堂を目指していたのだろう。母体に戻りたいという無意識の願望を、心理学では胎内回帰と呼ぶことがあるが、外陰部はその入り口でもある。とすると、聖地とはまた母体の置き換えなのかもしれない。