「自分の都合メガネ」の歪み

 では、シラフの状態の私たちは、果たしてこの世界をクリアに見て、正常に認識することができているのでしょうか? 実は私たちは酔っぱらっていなくても、歪んだモノの見方をしています。僧侶であり、宗教学者でもある釈徹宗師はそれを以前「自分の都合メガネ」という言葉で表現していました。

 人間はみな「自分の都合メガネ」をかけています。歪んだ見方を引き起こす「自分の都合メガネ」は、仏教でいうところの「無明」と呼ばれる煩悩であり、それによって真理と反対の考えに至ることを「顛倒(てんどう)」と言います。

「顛倒」は「自分の都合メガネ」(無明)に起因します。このメガネによって世界が歪んで見えている状態は、お酒を飲んで酔っ払った状態によく似ています。

 私たちの眼には自己中心的なバイアスが強くかかっているため、ありのままに見て、認識することができません。ですから、アルコールを全く口にしていなくても、実は「前後不覚」の酔っぱらいのような状態なのです。浄土真宗の宗祖親鸞は、以下のようにおっしゃっています。

 無明の酒に酔ひて、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ好みめしあうて候ひつる(『親鸞聖人ご消息』)

 これは、「無明の酒に酔って、貪欲(むさぼり)・瞋恚(いかり)・愚痴(根本的な無知)の三毒だけをほしいままに好んできた」ということです。また、『一念多念文意』には、「凡夫は無明煩悩が身に満ち満ちて、欲やいかりやそねみなどは臨終まで消えない」ともおっしゃっています。

「無明」の酒の酔いからさめる、つまり「自分の都合メガネ」を外すことは、臨終に至るまで、一般の人には残念ながら困難なようです。その点、人生の中でこのメガネをうまく外すことができたお釈迦さまの教えは、メガネを外した状態の教え、つまり、無明の酔いからさめた状態の教えといえます。

 私たちがかけているメガネの性質は人によって全くバラバラです。自分がかけているメガネや他者がかけているメガネの存在を意識することによって、自分自身の生き方や他者の捉え方がかなり変わってきます。

 みなさんも仏教の教え(さめた眼)を通して「自分の都合メガネ」がどのような特徴を持っているかを観察してみてはいかがでしょうか?