「AI美空ひばり」に見る
人工的な顔の限界
少し前の話ですが、2019年の大晦日に「NHK紅白歌合戦」で公開された「AI美空ひばり」について、賛否の議論が巻き起こりました。
AIが創り出した、美空ひばり本人とそっくりなCGが歌う姿は過去の音源や映像をもとに生成されたもので、歌の合間にはご丁寧に「お久しぶりです」「私の分まで、まだまだ頑張って」などとあたかも死者がよみがえったかのようなセリフまで差し込まれていました。
このCGを見て、純粋に美空ひばりを懐かしんだ人も私の周りにいました。彼女たちに話を聞いてみたところ、CG自体ではなく、過去のノスタルジーに重点があって、各々の人の頭の中に本物の美空ひばりを描いているように思えました。
余談ですが、若い頃勤めていた生命保険会社で年上の女性営業員たちとカラオケBoxに行くと、最後は必ず美空ひばりの合唱で締めになりました。私は少し世代が異なるのですが、美空ひばりの偉大さに驚いた記憶があります。
一方で「違和感がある」「死者に対する冒涜だ」と斬り捨てる向きも多く見られました。それらの批判を見るにつけ、やはり人は、「AI美空ひばり」を「ヒト」か「モノ」かという二者択一においては「モノ」とみているのだと感じました。
こうした生成AIがさらに進化することで「ヒト」に近づいていくのは間違いないでしょう。
ただ、「AI美空ひばり」のケースにしても、実在した故人の顔を持ち出しているがゆえに「生と死」という人が踏み込むことが困難な分野に立ち入っています。故人の顔をいくら忠実に再現したとしても、死者をよみがえらせることはできないからです。
生成AIが有効に機能を発揮できるかどうかは、そのコンテクスト(文脈)に大きく依存すると言えるのではないでしょうか?故人をよみがえらせる営みや、リアルに近い人物が「食べる」という「ヒト」の行為を再現することに対して、人は嫌悪感を抱くのではないでしょうか。
逆に、個々人が抱くノスタルジーや思い出にポイントを置けば、違った役割を担えるかもしれません。先日、コロッケさんが主宰するモノマネタレントのステージを観に行きましたが、最近亡くなった八代亜紀さんのシルエット(顔を見せずに)だけでモノマネの歌を聞かせていました。
その方がファンの思い出に訴えると考えたのでしょう。会場には彼女を悼む雰囲気が充満しました。「食べる」という行為も、生身の人間とは遠いアニメの少女を登場させた方が広告の効果は上がるかもしれません。