チーム状況として元々センターは選手層が薄いなかで、前年までライトのレギュラーだった稲葉(篤紀)さんが日本ハムに移籍した。外野のポジションが一気に2つも空く形になったんです。

 12球団を見回してもそんなチームはない。ここでレギュラーを獲らなかったら、どこに行ったって獲れねえぞ、って。キャンプ前からそんな思いで臨んだシーズンでした。

 前年のプロ1年目はほぼ二軍生活でしたが、「1年間はずっとファームでもいいからとにかくプロの生活に慣れよう」と腹を括って、ひたすらスキルアップに注力していました。

 当時、自分の中で掲げていたテーマは2つ。1つはファームの首位打者を必ず獲ること。2つ目は盗塁をしっかり決めること。当時の僕は、足は速いんですけど盗塁の技術がなかった。だからそれをファームで必ず身につけようと考えていました。

 1年目にその2つをクリアして、数字という意味でもイースタン・リーグの首位打者を獲ることができた。だから次は一軍で、という思いははっきりと芽生えていました。

若松勉監督に年賀状でアピール
「必ずチームに貢献します」

 漠然と「ポジションが空いたからチャンスだ」というわけではなく、自分の中でしっかりと段階を踏んでスキルアップしたという自信があった。だからこそ、真っ直ぐ「チャンス」に向き合えたのだと思います。

 ただ、僕はその頃チームの中で決して特別な存在ではありませんでした。鳴り物入りで入団した大物ルーキーというわけでもなく、ただの4巡目入団の選手だった。

 二軍で首位打者を獲ったからといって、黙っていても「じゃあ次は一軍へどうぞ」とポジションを空けてもらえる立場ではない。とにかく、死に物狂いでした。

 2年目を迎える正月には、当時の若松勉監督に年賀状を送りました。

「自分を使ってください。必ずチームに貢献します」

 気合いを入れて、正座して書きましたから。慣れない筆ペンを使って何度も何度も下書きしてね。

 とにかく自分という存在をアピールすることが必要でした。若松監督とはそれまであまり接点がなく、お話しした記憶もない。僕の名前くらいは当然、ご存じだったかと思いますが、一軍の監督が二軍選手である僕がどんな人間かということまでは分かっていないはず。どうしたら自分の熱意を伝えられるのか――。考えに考えた結果が年賀状だったんですよ。