経験の深みが楽しみとなる

 私自身の例で言えば、島崎藤村の『夜明け前』がそう。高校生のころに手に取ったのですが、あまりにも長くて、挫折した経験があります。

 じつは読み直しているいまも、読む速度はゆっくりです。ただ若いころと違うのは、不思議と投げ出す気にはならないことです。それどころか、物語の深みにずぶずぶとはまっていっている気がします。

 おそらく年齢を重ねたことで、「黒船の来航に始まる幕末の激動を、その時代に生きた人物が克明に語っている」、その気魄(きはく)に気圧される快感があって、自分自身も歴史の渦のなかにいるような感動を得られるようになったからでしょう。

 高校生のころは歴史の知識もいまより乏しかったし、藤村の父をモデルにした主人公、青山半蔵が、木曽路・馬籠宿(まごめじゅく)の旧家の当主を務める一方で、平田(篤胤)派の国学を信奉し、政治運動に傾倒していくストーリーも入ってきづらかったのだと思います。

 いまは「幕末の生き証人が語る貴重な話だ、丁寧に聞かなければ失礼だ」くらいの気持ちがあるので、途中で放り投げるなどもってのほか。じっくり時間をかけて読んでいます。

 これがまた経験の深みのなせるわざかもしれません。

 こういう経験の深みを意識して、若いころにはいまひとつピンとこなかったことを学び直すのもなかなか楽しいものです。

精神文化の柱をつくる

 ここであらためて、教養人とはどういう人なのかを明確にしておきましょう。

 というのも近年、情報・知識を豊富に有している人が教養人であるかのように、考え違いをするきらいがあるからです。

 情報社会がとてつもないスピードで進展したことを背景に、大量の情報を武器にビジネス界で成功する人に対する評価が高くなったせいかもしれません。

 しかし明言します。いくら大量の情報を持っていても、またいかに豊富な知識を蓄えていても、その人を教養人とは呼びません。

 彼らはしいて言うなら、前者が情報通、後者が知識人であって、教養人とはまったくの“別もの”なのです。