孫正義の「虫のいい要求」に激怒した稲盛

 稲盛の狙いは明確だった。NTTの長年の独占に風穴を開けるために設立した第二電電にとって、NCC・BOXのような製品は競争力の源泉となる。他社に供給されれば、その優位性は薄れる。国民にとって電話料金が下がるという社会的利益をもたらすためにも、第二電電の成長が必要だという信念があった。

 一方で、孫にも別の「善」があった。装置を独占供給すれば、第二電電だけが得をし、他の新規通信事業者が取り残される。それでは本当の意味で市場の自由化にはつながらない。

 NCC・BOXをすべての事業者に提供し、通話に応じたロイヤルティをソフトバンクに支払ってもらう形が、市場の健全性を担保すると孫は考えた。その利益は最終的に消費者にも還元され、電話の利用コスト全体を下げるきっかけになる。

 稲盛は「動機善なりや、私心なかりしか」を経営哲学の中核に据えていた。孫もまた、ビジネスを通じて社会の仕組みを変えるという信念を持っていた。両者ともに「公益性」に動機を見出していたが、それぞれの立場から導き出した解は異なっていた。

 孫は、いったんは稲盛の主張通りに契約することを選んだ。しかし、サインした後、孫は大きな後悔をした。

《孫は翌日、再び稲盛を訪ね、昨日サインした契約書を返してほしいとかけあった。この虫のいい要求に稲盛は激怒したが、ひたすら頭を下げる孫を見て、なぜか契約書の返却を約束した。そのわけはすぐにわかった。孫が開発したアダプターと同種のアダプターを間もなく京セラが作りあげるのである。情熱一本やりの孫と海千山千の稲盛では、最初から勝負にならなかった。この時点の孫の器量は、まだこの程度だったのである》
(佐野眞一著『あんぽん 孫正義伝』)

 孫が昨日サインしたばかりの契約書の破棄を求めて、稲盛が激怒したというエピソードは、先に引用した『あんぽん』よりも、杉本貴司著『孫正義 300年王国への野望』に詳しい。