給料が給料日に
払えるようになる喜び

 光の中に闇があるよりも、闇の中にある光のほうが、光を強く感じるような気がする。入社以来、私は長いトンネルの中を先が見えないまま必死に走ってきた。そんなとき、少し希望が見えてきた。最優先課題だった資金繰りの改善である。

 給与の遅配が当たり前だった状況から、給与支給日に遅延なく払えるようになってきた。私も薄給ではあったが、遅れずに給与をもらえるようになり、給与支給日前に「今月はどうしよう……」と悩むことがなくなった。

 この時期、さらに嬉しいことがあった。元利金の棚上げで弁済猶予してもらっていた足利銀行とサブバンクに弁済ができるようになったことだ。

 借入金額に応じて比例的に返済していく「プロラタ方式」に近い形だったが、月末の残金を弁済金に充当した。わずかな額ではあるが、支払いができたときは嬉しかった。1999年の代表取締役副社長就任から4年間かけて手掛けてきた改革の成果だった。遠い先まで見通せるようになったわけではなかったが、かすかな光に希望を抱いていた。

 一方、外部環境は厳しさを増していた。

 サブバンクの対応が目に見えて変化してきた。そして、同行から青葉台にある私たちの自宅を売却してほしいという要請が来た。当時、鹿沼市楡木には社長である父と本妻の住居が、宇都宮市に異母兄の実家である富士見の家が、そして目黒区青葉台に私が生まれ育った自宅があった。うち、銀行の担保に入れていたのは青葉台の自宅だけだった。

思い出の品々を棄て
住み慣れた自宅を売却

 銀行サイドは「自宅を売ってくれないと支援を継続できない」と言う。確かに、青葉台の自宅は担保価値が高かったので、売却すれば一定額の弁済はできるだろう。しかし、この家には半身不随の父が住んでいた。しかも、車いすの父が生活しやすいようにと母が自己資金でユニバーサル仕様に改修したばかりだった。父や母のことを思えば抵抗するべきだったかもしれない。

 だが、私は売却に応じた。車いすとはいえ、意識はしっかりしていた父に売却のことを話すと、「仕方ねーよ」という反応が返ってきた。一方、母は多額の費用をかけてユニバーサル工事をしたこともあり、「これからどうするのよ」という言葉が返ってきた。銀行と話し合ったところ、住む家は会社で賃貸するといいとのことだったので、母には私と妻、息子、父母の5人で賃貸マンションに住むことを提案した。