かねてより松本さんを尊敬していた私は、松本さんに認めてもらえたということで、急に肩の力が抜けた。忽ち、「戦いすんで日が暮れて」がいい作品だと思えてきたのだから、私も他愛がない。

(しかし賞などというものは「時の運」である。そう大騒ぎして喜ぶほどのものではないという考えは今も変らない)

 記者会見を終えて、ニヤリスト星野とホテルを出て駅に向って歩いて行きながら、私は1969年7月18日の夜空を見上げた。それはアメリカの宇宙ロケットアポロが、月面着陸を目指して飛びつつある時だった。ビルの上空に切り抜いて貼りつけたような黄色い丸い月が出ていた。

「ああ、あの月に向って、今、アポロは飛んでいるのだなぁ……」

 そう思いながら私は歩いていた。そしてこの夜のことは死ぬまで忘れないだろう、と思った。

 その翌日から、私が予想した通りの日々が始まった。受賞はめでたいものの筈なのに、私にとってはやはり「新しく襲ってきた苦難」だったのだ。私の人生の前半のぐうたらの埋め合せをするべき時がいよいよ来たのだった。

受賞翌日に始まった
新たな苦難の日々

 直木賞受賞は人が思うほどめでたいことではなかった。直木賞受賞がテレビで報道されると、まっ先に債権者からの祝電が来た。その祝電には、さあこれから取り立てるぞと、手ぐすね引くという気配が籠っている。受賞は当の私よりも債権者の方がなんぼか嬉しかったのにちがいない。戦いすんで日が暮れるどころか、私には新たな戦いが始まったのだった。

 昭和44年のこの頃は、小説雑誌全盛期で、大手出版社から6誌の小説雑誌が出ていた。その6誌から「受賞第1作」を注文された私は、20日以内にその全部に小説を書かなければならない。その他に「受賞の感想」などの短文の注文が数え切れぬほどある。テレビ、ラジオからは出演せよといってくる。インタビュー、対談の依頼がひきもきらずにくる。

 今から思うとべつにその全部を引き受けなければならないことはなかったのだが、その時の私は受賞した以上はどんなことがあっても全部こなさなければならないものだと固く思いこんでいたのである。