小学生の娘と
戦い抜いた日々

 朝9時から夕食まで。夜は10時から午前4時頃まで。食事入浴のほかは体力のつづく限り机に向っていた。トイレに立つ間も惜しんだので便秘が身についてしまった。

 インタビューや写真撮影が唯一の息ヌキになっていた。

 娘は小学校3年生だったが、勉強を見てやる暇など全くなかった。宿題があるのかないのか、したのかしていないのかもわからなかった。そんなことを考えたこともなかった。

 娘は1人で寝るのが寂しいので、いつも私が原稿を書いている机の横へ来て本を読んでいるうちに眠ってしまう。その身体に毛布を掛けてやったまま私は原稿を書き、書き終えて床に就くときに起して寝床へ連れて行った。戦っていたのは私1人ではなく、銃後の娘も共に戦っていたのである。

『老いはヤケクソ』書影『老いはヤケクソ』(佐藤愛子、リベラル社)

 私の家は掃除が行き届かずに荒れ果て、庭は草ぼうぼう。門柱の夫の表札は彼が自分で金槌でもって叩き壊した無惨な姿のままになっている。その頃、庭で写した写真が週刊誌に出たのを見て、あれはどこの避暑地ですか、軽井沢ですかと訊いた人がいた。我が家の庭は雑草が足を隠すほどに伸びていたために、人の目にはどこかの草原に見えたのだ。

 しかし家が荒れるのと共に、私の肩の借金は減って行った。働きさえすれば、借金はどんどん返せていく。それが面白かった。恰も聖路加病院の庶務課で働いていた時、山と溜った数年分の伝票を家へ持って帰って徹夜で計算し、山積みの伝票がみるみる減っていった時の面白さに似ていた。

(しかしその後、納税期がきた時、私は腰が抜けそうになった。働けば働くほど税金は上り、税金と借金返しとの往復ビンタを喰ったのである)