実際に法務省が発行している令和5年版の『犯罪白書』をみてみましょう。殺人事件の被害者の内訳は、親族が44.7%、知り合いが39.7%、つまり約85%が身近な人だったことになります(*1)。
(*1)法務省『令和5年版 犯罪白書』、286頁
見知らぬ人は1割から2割にすぎません。その割合は若干の変動があっても毎年ほぼ一定です。私たちを驚愕させる殺人事件は身近な人との間でこそ起こる、このことは何度強調してもいいことです。
そして、被害を受ける人の内訳をこのように分析してみると、何が正確な問題であるかがわかってきます。それはすなわち、「見知らぬ他人にはやさしくできるのに、どうしてそのやさしいが身内や距離の近い人にはつづかないのだろう?」というものです。
「交わりの大部分の時間は
対話に費やされる」
あなたは誰とであれば、深く有意義な会話ができると思っていますか? 友人やパートナーといった身近な人だと思ってはいませんか。
たしかにパートナー関係で仲のよさを維持する秘訣は、その相手と腹を割って話し合えるか、そうした会話の時間をどれほど長くもてているかです。しかも重要なのは、実際に想いや考えを口に出して、相手と「言語的コミュニケーション」をとることです。
哲学者のニーチェはかつて結婚についてこう述べていました。
「長い対話としての結婚。──結婚にふみ切るさいには人は自問すべきである。お前はその相手と老年になってまで愉快に語り合えると信じるか? 結婚におけるあらゆる他のことは一時的である、しかし交わりの大部分の時間は対話に属する(*2)」と。
(*2)フリードリッヒ・ニーチェ『ニーチェ全集5 人間的、あまりに人間的I』(池尾健一訳、ちくま学芸文庫、1994)357─358頁。訳文は一部、改訳しています
パートナー関係とは、すなわち、その相手と長い対話を継続することだ、というニーチェの言葉には重みがあります。
しかも対話は愉快でなければつづきません。だからこそ親しい間柄であっても自分の意図を共有したいと望むのであれば、どんなことでも言葉にすることが必要です。言った、言っていないのいざこざを少しでも減らすためにも、言葉で伝え、言葉で確認を取るべきなのです(できればユーモアを添えて)。