何が正常なのか?

 不自然なものに違和感を抱き、悩まざるを得ない悩みを悩むことを、病的な状態と診断してしまうのだとしたら、医療は単に現状の社会に「適応的」な人間を作り出す装置に成り下がってしまうでしょう。

 特に、治療者自身が「適応的」であることに何の疑問も抱いていないような場合には、クライアントが不自然な環境に対して正常に反応したものを「異常」と捉えてしまうおそれもあります。

 たとえば、少々専門的な話になりますが、従来「躁うつ病」と言われていた病態は、近年、新しい診断マニュアルによって「双極性障害」と呼ばれるようになり、この「双極性障害」にはⅠ型とⅡ型があるという考え方が主流になってきています。

 従来「躁うつ病」とされていたものはⅠ型に分類されるのですが、従来は躁状態とは見なさなかったような軽微なものまでも「軽躁状態」として見る考え方が勢いをもち、「双極性障害」Ⅱ型という診断が新たに登場したのです。

 しかし、このⅡ型の診断には、どこまでを躁状態と見るかという判断の難しさがつきまといます。実際、私から見ても、たとえば正常な意欲にもとづく活動性の亢進や不適切な医療に対する異議申し立てなどが「軽躁状態」として捉えられてしまい、「双極性障害」Ⅱ型と診断されてしまっているケースも少なくない印象があります。特に、何らかの突出した資質を持っている人や、人並み以上のエネルギーや自我の強さを備えている人に対して、その熱中ぶりや言動の勢いを「軽躁状態」と捉えられてしまうことが多いように思われます。ことに私たちは、標準域から上に外れたものについて、捉え間違いをしてしまいやすいのです。

 メンタルな問題を扱う医療では、どうしても、治療者が自分自身を基準にしてクライアントを診断してしまうという主観的なバイアスを完全には排除しきれない限界があるのですが、しかしそれでも、「正常」なものが「異常」と診断されてしまうことがあるとしたら、それは看過できない問題です。

何を基準に判定すべきか

 スイス在住の精神療法家アルノ・グリューン氏は、『「正常さ」という病い』という著作で、次のようなことを述べています。

現実の世界における人間的な価値の喪失にもはや耐えられない人々が、「狂っている」と見なされる一方で、人間の本質を放擲してしまった人々には、「正常性」の証明書が与えられている。そして、われわれが権力を委ね、われわれの生活と未来について決定させるのは後者の人々なのだ。彼らは現実に正しく近づく術を心得ていて、それを扱うことができるのだと誰しも信じている。しかし、「現実との関係」が、その人の精神的な病気、あるいは健康を確認する唯一の尺度なのではなく、どの程度まで、絶望のような人間の感情、共感のような人間の知覚、感激のような人間の体験が可能なのか、あるいはどの程度までそれらを失っているかということも問われなくてはならない。

(馬場謙一・正路妙子訳『「正常さ」という病い』青土社より)