東大卒のフリーライターから、約170年の歴史をもつ酒蔵の8代目へ——。秋田・新政酒造の佐藤祐輔社長は、32歳だった2007年に蔵に舞い戻った。そして、わずか7年の間に新たな酒をつぎつぎと打ち出して、にわかに注目を集め、赤字だった蔵の経営も減石増益と筋肉質に立て直しつつある。改革断行の背景と、酒造りのポリシーを聞いた。
蔵人を若手中心に入れ替えて
普通酒主体の蔵から純米蔵へ
――蔵に戻った翌年から、新たなお酒をどんどん打ち出されてきました。しかもなかなか手に入らない程どれも人気です。普通酒造りからすぐに転換できたのですか。
僕は19BY(平成19年7月~翌6月の醸造年度。2007年)に戻ってきました。当時は、冬場のみ蔵人に泊まり込んで造ってもらう、一般的な寒造りで普通酒を目一杯つくっていたんです。生産量は5500石ほどでした。
戻ったときから「全量を純米造にしよう」とは決めていました。ただし、普通酒の仕込みを20~30年続けてきた蔵人たちに、突然「うちは純米吟醸しか造らないことにするから」と言っても、急に仕事を変えられるものではありません。みな65歳以上だった蔵人15人のうち、通いで来られる4~5人以外には大変申し訳ないけど…と季節労働の契約を更新せず、翌年から自分のめざす酒造りへグッと方針転換しました。
といっても、在庫が大量にあったので、20BY(2008年)に仕込んだのは500~600石だけです。僕に加えて、県内外から募った造り手さん3~4人と一緒に、若手だけで造るぞ!と始めたわけです。
――事業立て直しの青写真は、戻る前から明確に描けていたのでしょうか。
そんなに難しく考えてはいませんでした。
売上高が下がりすぎるとまずいですから、要はタンク1本の中身を、普通酒から本醸造にして、特別純米にして、純米吟醸に…と数年で変えていって全体の本数さえ減らさなければ、売上高をほぼ維持しながら利益率が上がるに決まっています。だから、実験作を造ったぶん、それを頑張って売って、そのぶん普通酒の造りが減っていく感じでした。
ただし製造部で杜氏や蔵人の代わりに雇う若者は、年間通じた正規雇用にしましたので、そのぶん醸造期間をできるだけ長期化させるなど相当工夫は必要でした。結果として、蔵に戻った当初と比べて現在、出荷量は5500石から2000石超と約3分の1に減っていますが、売上高は約6億円から、約5億円と2割に満たない減少にとどまり、経常利益はマイナスの状態から売上高比10%程度まで改善しています。