高山、途方に暮れる

 「僕は、負け戦はしない主義だ」

 えっ? 安部野の一言に高山は、まさに眼が点になった。

「このブランドの立て直しは、うまくいかないのですか?」

 安部野は、無言でA3の5ミリ方眼のノートパッドを取り出した。

「市場調査を行ってから商品を手配し、発注してから入荷するまでに何ヵ月かかると思っているんだ。スーツに比べてレディースのほうが商品の納期が短いといっても、『ハニーディップ』の価格帯の商品は、ほとんどが中国やベトナムなどの海外生産のはずだ。市場調査には、準備を含めて早くても2ヵ月、分析に1ヵ月強。そして方向性を出してから企画を始めて、第一回目の商品が店頭に並ぶまでに最短でも2ヵ月はかかるだろうに。そこまでで5ヵ月だ。つまり最初の商品投入で成功しなければいけない。修正の時間の余裕がない、一発勝負になるということだ」

 安部野に言われて高山は蒼くなった。

 …その通りだ。

 高山が以前いたメンズスーツ業界では、在庫が万年過剰状態にあるのが常だったため、商品の手配を考える必要がなかった。

「それも社内がきちっと機動的に動く前提での話だ。君はまだ、その会社に入ったばかりの新参者なのだろう? 社内の人心を掌握して、動かすことができているのか? まだ、できていないのじゃないのか」

 高山の頭の中は、真っ白になった。

「慎重に思い込みを廃する、というのは、改革の際の大前提だろうに」

「どうしたらいいのでしょうか」

「そんなこと僕が知るか。自分で安請け合いをしたのだから自分で何とかしろ」

 安部野は冷たく言い放った。

 当てにしていた安部野に突き放された高山は、なす術もなく安部野の描いたチャートを見つめていた。

「安部野さん、短期間で成果の得られる手段って何かないですか?」

 安部野のもともと不機嫌そうな顔が、さらに不愉快さを加えた表情になった。

「冗談じゃない。そんな都合のいい話なんてあるものか」

 あからさまに呆れ顔を見せていた安部野だったが、「ただし、だ…」とノートパッドをめくった。

「市場調査をする前に、短期で結果につながるアイデアが探し出せる可能性はある」

 安部野は円を五つ描き、最初の円の中に、認知と書いた。

「購買行動というものは、まず、その店、製品、あるいはそのブランドの存在を知ることから始まる。いわゆる『認知』だ。PRや雑誌の広告、新聞の折り込みチラシなどの販促物で認知されることもある。地代が高くても目立つところに店を作るのも、これが目的だ。これによって、お値打ちでスーツを買うならば『紳士服のしきがわ』、アメリカンカジュアルならばアバクロンビー&フィッチ、GAP、最先端のモードファッションならばシャネルなど、というイメージが頭の中に出来上がる」

 安部野は次の円に向かって矢印を書いた。

「そして、次が『来店』だ。『何かが必要だ』とか、あるいは、『何か、いいもの、面白いものがあるかもしれないから、あの店に行ってみようか』という動機で、店に向かうわけだ」

「インターネットでの買い物でも同じですか?」

「ああ、君が初めてアマゾンで買い物をした時も、同じような思考をしたはずだ」

 確かに、その前からアマゾンの名前を知っていて、ある時に試してみようとアマゾンのホームページを開いたな、高山は思った。