国をメチャクチャにした「文化大革命」

 そして、毛沢東時代の悪政の代表となったのが、1966年開始の「文化大革命」(以後、文革)だ。これは「封建的文化や資本主義文化を打破して、新しい社会主義文化をつくる」ための大衆運動だが、実際は大躍進政策に失敗して国家主席を辞任していた毛沢東が、巻き返しを狙って行った権力闘争だ。

 この文革で、中国は未曽有の大混乱に陥った。まず中高生ぐらいの子どもたちが「紅衛兵」を名乗り、「造反有理」(造反する者には理由がある)をスローガンに、旧文化の破壊役となった。

 彼らは仏像を破壊し寺に火をつけ、書や陶器を踏みつけた。また、文革に批判的な大人を「反革命分子」と呼んではつるし上げ、首からプラカード、頭に三角帽子を被せては市中を引き回した。

 中高生にこれやらせちゃダメだよ。反抗期のガキに「好きに暴れていいぞ」というのが紅衛兵だったから、中国はひどいことになってしまった。もちろん紅衛兵からリンチされて死ぬ大人もいたし、宗教に対する弾圧や殺害もひどかった。

 もともと革命の思想は暴力革命を肯定するから、まったく歯止めが利かなくなった。最終的には紅衛兵同士の派閥争いまで激しくなり、中国は内戦に近い状態にまでなった。

 その他、政治の舞台でも「四人組」(毛の妻・江青ら四人の腹心)を中心とするどす黒い権力闘争があった。この頃はもう毛沢東自身が年齢的に相当衰えてきており、四人組の暴走を止めるどころか気づかないことも多かったという。

 でも、この文革もようやく1976年、毛沢東の死をもって終わりを迎えた。この後「四人組」を始めとする文革派が失脚し、数年前に復権していた鄧小平が権力を掌握する。

 鄧小平が市場原理を導入した「改革・開放」政策。毛の死後、四人組との権力闘争に勝利した鄧小平は、国家主席にこそならなったが、事実上中国の最高指導者となった。

 そんな彼が1978年から始めたのが「改革・開放」政策だ。これは市場原理や外資導入をめざしていくもので、従来の毛沢東が築いてきた社会主義路線とは明らかに一線を画するものだ。

 この大胆な路線変更の背景には、鄧小平に、毛時代の停滞への焦りがあったのと、国連に中国代表団長としてニューヨークを訪れたときの驚き、さらには、日中平和友好条約で来日した際の日本の発展ぶりへの驚きなどがあったらしい。

 そりゃ驚くだろうね。だって自分が国内で3回も「失脚→復権」のドタバタ劇を繰り返している間に、かつての敵・日本は、いつの間にか戦後復興・高度成長を経て世界第2位の経済大国なんかに納まっているわけだから。この驚きと焦り、期待と不安は、まさに鎖国明けの日本と同じだ。

 鄧小平にも同じ思いが見て取れる。だから彼は、「改革・開放」政策で自由主義的要素を導入しつつ、天安門事件(1989年)では自由を求める民主化運動を弾圧した。これらは一見矛盾した動きに見えるけど、こう考えたらどうだろう。

「政府主導で、発展している自由経済を導入してやる。それが定着するまでは政府に従え。その間お前らの自由はナシだ」

 これは、フィリピンやインドネシアや韓国で見られた「開発独裁」と同じ思考だ。これならうまくつながるでしょ。というわけで始まった「改革・開放」政策。では、これからその中身を見てみよう。

「改革・開放」政策では、まず沿岸部の5地域を「経済特区」に指定して、そこを外国資本導入のモデル地区とした。場所は香港・マカオ・台湾などの近くで、資本主義経済圏との接点を持ちやすい地点。そこに外国企業を受け入れて、関税・法人税・所得税などでの優遇措置や企業としての経営自主権などを保障した。

 このやり方は、「資本主義的経営を学ぶ」という意味で、中国側にメリットがあると同時に、「10億人以上の市場・安価な労働力の確保」という意味で、資本主義国の企業側にもメリットがある。その他「改革・開放」政策では、企業自主権の拡大や、金融・財政・流通分野の市場化なども行われた。

 それから「改革・開放」政策では、「生産請負責任制」という新たな農業政策も始まった。これは共産党が設定したノルマ以上の生産物を自由処分できるという“農業への市場原理の導入”で、この頃から「万元戸」(大金持ち)なんて言葉も生まれ始めた。そして当然、毛沢東が奨励した人民公社は解体された。

 こういうやり方で「2000年までにGDPを1980年の4倍に」まで引き上げていくことを目標として掲げ、その後中国はGDPの平均成長率を9%という高い水準で保ち、ついにこの目標を達成した。