「民族紛争」「宗教紛争」では収まらない
複雑なユーゴ内戦の背景
複雑極まりないユーゴ内戦については、東京大学大学院総合文化研究科の柴宜弘教授が本書巻末に解説記事をまとめています。それによると、第2次世界大戦期にドイツに対する戦争で共産党を中心とするパルチザンが勝利を収めたユーゴにおいては、戦後チトーを指導者とする社会主義政権によって民族・少数民族の平等が認められ、新たな国家と新たな憲法のもとで分権化が推進されました。6つの共和国と2つの自治州が同じ立場で「経済主権」を保持しながら、きわめて緩い連邦国家形態が築かれたのです。しかしながら、80年に終身大統領のチトーが死去すると、経済危機が深刻化するなかで共和国・民族間対立が顕在化。以降、ユーゴは解体の道を歩んだのです。
解体に伴い、冷戦後最大の内戦が生じました。第一は91年6月のスロベニア独立に伴う、国境の管理権をめぐるスロベニア共和国軍と連邦軍との衝突。第二はクロアチアの独立後、91年9月から本格化したセルビア人勢力とクロアチア共和国軍とのクロアチア内戦。第三は92年3月に始まるムスリム人、セルビア人、クロアチア人の三勢力によるボスニア内戦。そして第四は80年代からユーゴ解体過程を通じて、問題の表面化が危惧されていたセルビア共和国コソボ自治州の90%を占めるアルバニア人をめぐる紛争です。
ユーゴで発生した一連の内戦は民族紛争とも宗教紛争とも言われますが、しかしそれは副次的な現象にすぎず、内戦の原因を複雑な民族構成や宗教の違いにのみ帰すことはできません。内戦の主要因は社会主義が崩壊するなかで、権力や経済基盤を保持しようとする政治エリートが民族や宗教の違いを際立たせ、第2次世界大戦期の戦慄の記憶を煽り立てたことにあったのです。
ユーゴ内戦の偏向報道を
一つ一つ具体的に検証
本書の著者ブロックも指摘しているように、このような歴史的背景を持つユーゴ内戦に際して、戦争を取材する西側のジャーナリストが基本的な知識さえ持っていなかったことは驚くべきことである。さらに、ユーゴ内戦の戦争報道は言語上の障害が大きく、記事の多くが英語を介して伝えられる情報に基づいており、クロアチア内戦期につくられた「セルビア悪玉論」に則り一貫していた。「偏向報道」や「捏造報道」がどのようなものだったのかについては、本書を熟読していただきたい。戦争報道において、徹底した現場主義の立場をとりながら、紛争の当事者から自らを厳しく切り離す姿勢をとり続けることがどれほど困難かを思い知らされるだろう。(488ページ)
ブロックはそうした一連の偏向報道の一つ一つを具体的に検証していきます。92年10月から11月にかけて、彼は約3500の配信記事から集めた1526本の記事の一覧表を作って分析を行いました。同じ5ヵ月間(91年および92年の5~9月)の記事を、(1)速報1087本、(2)追跡記事や特集記事347本、(3)意見・分析・論説・解説記事92本――の3つのカテゴリーに分けて比較したのです。