長州出身の安部首相が
なぜ長岡藩の故事に触れたのか

 ところで、長岡藩初代藩主の牧野忠成は、家康麾下の「徳川17将」の1人に数えられる武将でした。牧野家は三河国宝飯牧野村(現豊川市牧野町)で牧野家の名を起こし、長篠の合戦で德川勝利の因をつくり、その後も歴戦のたびに功をあげながら徳川の重臣になりました。1616年に長岡城主として6万4000石を賜り、さらに栃尾1万石を吸収して7万4000石となり、明治維新までの250年間にわたって牧野家は長岡藩を所領し、徳川家恩顧の譜代大名として幕藩体制を支えたのです。

 小林虎三郎は、その長岡藩が設立した藩校「崇徳館」で学び、優秀な成績を納めました。本書はその虎三郎の生涯を、著者の島宏氏自身の徹底した調査と取材によって掘り起こした新事実も紹介した書き下ろし作品で、島氏が脚本づくりと監督をつとめたハイビジョン映画「米百俵」のシナリオも全文収録しています。

 映画の後半部の冒頭で「常在戦場」という壁書きに藩士たちがひれ伏すシーンがある。

 この壁書きは参州以来のご家風として、長岡藩に伝わる「参州牛久保之壁書」の冒頭に書かれた四文字である。

 戦国の三河で培われた牧野家の気風は、そのまま長岡藩風となり「常在戦場」の四文字は長岡藩士に質朴剛健の武士生活を行なわせることになった。

(中略)長岡藩士は、「常在戦場」の四文字を武士の心意気として敬愛したのである。

 牧野家は今川、武田、徳川の間に介在し、牛久保はその地形から絶えず戦闘の危機にさらされるという、緊迫した状態の連続であった。そのため剛健な心身と質実な生活を要求する「常在戦場」の家風が形成され、精神が壁書きになり、長く藩風として伝えられた。(44~46ページ)

 話は衆院選に戻りますが、今回の早期の衆院解散論について、石破茂・地方創生担当相は「いつ解散があってもおかしくない。常在戦場とはそういうことだ」と語っていました。一方、安倍首相は当初、「まったく考えていない」とコメントし、解散を否定していました。

 その安倍首相は、事あるごとに自らの出自を強調しています。長州藩や長州人に対する思い入れや意識は非常に強く、その意味ではかつて敵方だった長岡藩の「米百俵の美談」をわざわざ所信表明演説で取り上げた意図が那辺にあるのか。安倍首相の真意を計りかねている人がいるとしたら、それは考え過ぎというものです。

 05年8月、郵政民営化法案が参議院で否決されたことを理由に、当時の小泉首相は衆議院を解散し、国民の信を問う衆院総選挙に打って出ました。結果、自民・公明党が圧倒的勝利を収めたことは、みなさんご承知のとおりです。

 原発再稼働問題においては今でこそ立場を異にする2人ですが、安倍首相にとって小泉元首相は自民党政治家の大先輩であり、自民党幹事長職はもとより、小泉内閣における内閣官房長官に引き立ててくれた恩師でもあります。安倍首相はその恩師の幸運に、単純にあやかろうとしているだけではないでしょうか。