小泉首相の演説で有名になった
「米百俵」の美談

小泉首相の引用で有名に<br />長岡藩の故事「米百俵」を世に知らしめた一冊島宏著『米百俵 小林虎三郎の天命』1993年11月刊。重厚な装丁は20年以上たった今でも色あせません。

 前置きが長くなりましたが、今回取り上げたのは小泉首相が演説の結びで引き合いに出した「米百俵」の故事がきっかけとなって衆目を集めた『米百俵 小林虎三郎の天命』です。

 長岡市教育委員会資料などによると、「米百俵の精神」とは以下のようなものです。

 明治維新の激動を象徴する戊辰戦争で、越後長岡藩は維新政府の敵軍となって戦いました。しかしながら、薩長両藩を中核とする新政府軍の圧倒的な大軍団に敗れ去り、結果、長岡は焦土と化してしまいました。この戦いで長岡藩は賊軍の汚名を着せられ、7万4000石は没収されました。禄高を3分の1の2万4000石に減らされた長岡藩の藩士たちは窮乏のどん底に突き落とされたのです。

 そこへ、窮状を見るに見かねた長岡藩の分家にあたる三根山藩から見舞いの米百俵が送られてきました。明治3年の春のことでした。その日の糧にも事欠く長岡藩士たちにとっては、のどから手が出るほど欲しい米でしたが、しかし時の長岡藩大参事・小林虎三郎は見舞いの米を藩士に分配せず、この百俵を元手にして学校を設立することが長岡を立て直す一番確かな道であると説いたのです。そして百俵の米を売り払い、その売却代金を「国漢学校」の書籍や用具の購入に充てる決定を下しました。藩士たちは猛反発し、虎三郎に抗議しましたが、虎三郎は以下のように諭し、自らの政策を押しきったのです。

「国が興るのも、滅びるのも、町が栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある。だから、人物さえ出てきたら、人物さえ養成しておいたら、どんな衰えた国でも、必ず盛り返せるに相違ないのだ。おれは堅く、そう信じておる。そういう信念の下に、このたび学校を建てることに決心したのだ」

「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」

 こうして国漢学校が開校し、洋学局と医学局が設置されました。この学校は士族によって設立された学校でしたが、身分にとらわれず、一定の学力があれば庶民の入学も許可されました。のちに多くの人材を育て上げることとなったのです。

 ……安政五年(一八五八)の春に、虎三郎はおのれの教育論を代表する『興学私議』を書いている。

 この執筆は一年を費やし翌年に完成させている。このなかで虎三郎は、欧米列強がおそいかかってくる激動の時流を踏まえ、日本国を発展させる方策をつぎのように論述している。

「今日のように日本が欧米諸国に押し流されようとしているのは、誰もが学問を怠りなまけているからである。早急に若者に勉学を奨励し、人材の育成をしなければならない。そのためにはまず、上級学問を考えずに、小学教育からはじめなければならない。文字を習わせ、儒学の経書を教え、外国についての知識を教授して、児童たちを啓発しなければならない。さらに優秀な者には、江戸にでて儒学、武術、洋学を学ばせなければならない」

と説いている。

 この『興学私議』は虎三郎の思想の結晶であり、米百俵、国漢学校の創設という具体的な業績の背景が、すでにここにあると考えられる。私議とは個人としての見解をのべるというひかえめな表現である。(34~35ページ)

 まちづくりの基本は人づくりであると説いた小林虎三郎の「米百俵の精神」は、その後、長岡市民のなかに脈々と語り継がれてきたそうです。故にこの故事は「目先のことにとらわれず、明日のために行動する」という精神風土を長岡に根づかせ、未来を担う新しい世代を育む思想の源泉となりました。