美人は人ごみの中では意外と見つかりにくい。美しいのだから、輝いて目立ちそうだが、そうでもない。人の流れの中に溶け込んでいるからだ。むしろ、人ごみの中で目立つのは、美人とは言いがたい人だ。

 道を歩いていると、流れを妨げる人がいる。なぜか横に広がって話しながらダラダラ歩く集団、突然止まる人、一人だけ逆行する人。

 道に限らず、デパートの中や駅など人が多くいる場所では「流れ」がある。流れをつくる「水」になっているのが美人だ。そしてその流れに逆らう人、それは川の流れに逆らう鯉だ(実際は滝を登る鯉などいないそうだが)。

 鯉は群れをなすことが多い。その群れが会話を始めると大変だ。鯉たちは水の音が聞こえなくなり、会話に没頭する。ひたすら口をパクパクさせる。まさに鯉。

 ゆっくり歩いている鯉を追い越そうとしても、こちらの存在に気づかない。ずっと妨害している。鯉たちが大声を出して迷惑なのに、まわりの視線も目に入らない。自由に泳ぎまわる鯉。

 単独で泳ぐ鯉も邪魔だ。行列の中、平気で逆に歩き出す人。混んでいるレストランで食事を終えてもずっと立たない人。平然と割りこむ人。あえて人の流れを見ようとしていない鯉だ。そういう人たちの口を見るといい。たいてい口を尖らせて、口笛を吹きそうな顔をしている。これもまさに鯉。

 鯉たちに注意をすると決まって言い返す言葉がある。口を尖らせて言う。「自由でしょ」と。鯉の自由は流れにむなしい。たしかに自由かもしれないが、「美人のもと」はそんな自由には厳しい。その発言こそ「美人のもと」を激減させるのだ。

 一方、美人はそんな鯉など気にせず、流れている。流れを読んでそこに乗ることが「美人のもと」にはいいということを知っているのだろう。