フランス象徴派の詩人
マラルメの理解にも役立つ
渡邊氏は2014年11月に『マラルメ詩集』(岩波文庫)を訳出しました。ステファヌ・マラルメは19世紀後半、フランス象徴派の詩人ですが、難解であることでも有名です。マラルメの「半獣神の午後」と題された詩にインスピレーションを受け、クロード・ドビュッシーが管弦楽曲「牧神の午後への前奏曲」を作曲したことでも知られていますね。
『マラルメ詩集』を渡邊氏は流麗でわかりやすい日本語に訳し、多くの読者を驚かせました。580ページを超える大部な文庫ですが、半分以上を詳細な注解、年譜、解説に費やしており、マラルメをはじめ、フランス近現代文学を知るための貴重な文献ともなっています。
本書『越境する伝統』でも、マラルメは次のように登場します。
そもそもマラルメの「芝居鉛筆書き」に読まれる「舞踏論」は、マラルメ自身が真っ先に指摘しているように、「バレエ論」なのであって、「バレエは、本来的に言えば、ダンスの名を認めないことも可能」な、言うなれば「象形文字」であり、バレリーナが自分の身体で書いていく「文字」を観客が読み解くという、「高度に詩的な」作業を前提としていた。しかもマラルメの場合は、言説の場そのものが月刊誌の「演劇批評」であったから、マラルメを読む側としては、詩人が何を見てそういう視覚や操作を主張しているのかは見当がつく。それは、十九世紀の八〇年代に持て囃された、かなりエロチシズムの濃いエデン劇場の「イタリア・バレエ」であり、あるいはオペラ座で、「ロマン派バレエ」がいまだ「クラシック・バレエ」へと純化されず、一種の「大空位時代」を生きている時期の、「見せる舞台としてのバレエ」であり、九〇年代におけるロイ・フラーの登場によって、ようやく二十世紀の問題意識へと接続されるような、曖昧なジャンルであった。マラルメは、「バレリーナは、二重の意味で踊る女ではない」として、まず「女」ではなく、彼女が表象すると考えられる「精神の基層にある形象のメタファー」であること、また、「踊る」のではなく、そうした形象を一種の「文字」として舞台上に、暗示的に書いていくのだとした。(82ページ)
じつに鮮烈な読解で、「表象文化論」とはこのように考えていくものなのか、と教えてくれます。本書はA5判で550ページ、多岐にわたる論文が52本収録されていますから、どこから読んでもいいと思います。しかし、例えば「マラルメ」に言及した論考を選択的に読むと面白いでしょう。
『越境する伝統』には電子書籍版があります。電子書籍であれば「マラルメ」を検索しながら読めるので非常に効率的です。「マラルメ」は一例で、多様な読み方ができるはずです。ぜひ、チャレンジしてください。
http://www.diamond.co.jp/digital/4780083550000.html