小説に仕立てる葛藤に揺れながら
小説であることの意義を捉え直す

 取材を進めながら、ハードボイルド云々は薄れてしまって、テーマがより深化していくと、災害の悲惨さや死の尊厳を語りながら、それでもエンタテインメントとしての小説にできるのかという自問自答が始まりました。でも、しなければならない。ただの暗い記者擁護に終わったら、それこそ意味がありません。エンタテインメント小説の役割は、どんな不幸を書いても、どんな幸せを書いても、“興味を持って読んでもらうこと”にあるからです。

 途中で、我ながらむちゃくちゃなことをやろうとしているとは思いましたが、悲惨な被災地を書く一方でハラハラドキドキして読める小説に仕立てつつマスコミ批判も入れる。最初はツギハギで作り始めて、すべての要素をかき混ぜていると化学反応が出てきます。今回のテーマと世界観で何を訴えたいのか改めて自問自答し、悲惨な話を書きながら過剰になりすぎた部分−−−こんなこと書いたら失礼かなとか、言い訳みたいな部分をどんどんそぎ落としていくと、ドライになっていきます。すると、ドライになったからこそ伝えたいものが湧き出てきます。

 主人公の記者が被災地を歩いて行くと、これでもかというぐらい遺体と瓦礫の山しかないので、被災者の方にとっては何ともたまらない息苦しい小説になっていきました。生々しく記憶に残っているものを文字で読むと、想像力が余計膨らみますから。4年も前に起きたことを自分の頭の中でもう一度再現したくない、と思うのが人情です。それでも、もっと後年になってこの小説を読んだ方が、東日本大震災ってこんなに凄まじい災害だったんだと知って頂くために書き進めました。

 今までの私の作品とはちょっと違うタイプの小説が、この10年目という節目でできたことは自分にとって大いにプラスです。真山らしくないと言われる方もいらっしゃるかもしれません。実際、この2〜3年ずっと言われていますけど(苦笑)。

 最後に、本ができて次の本に向かっていくには、読者のレビューから目を背けずにいなければと思います。先ほどの「らしくない」というのはあまり気にする必要はなくて、いえ本音では密かに傷つくんですけど(笑)。特にレビューを見て、読者に意図が届いていなかったんだ、とか、こんな読み方をされるんだ、という気づきが次への課題になります。小説そのものは、自分では出てから読みません。出したときにはそれがベストであっても、読めば絶対にここはこうすればよかったという改善点が見えてしまう。単行本から文庫にするときに改めて見直して、泣きながら直しますから(笑)これも次への糧になりますよね。

 近々、これはたぶん“真山らしい”と思って頂けるハゲタカ外伝の単行本と、「ハゲタカ」シリーズ5作目となる新たな連載もスタートします。今後も、ぜひ得体の知れない作家として温かい目で見守って下さい。