「消費は美徳である」――経済成長と岩戸景気
池田の「所得倍増計画」に乗せられて、この時代は景気もグングン拡大した。この頃の好景気を「岩戸景気」という。
正確には1958年から始まった好況だが、その牽引役となったのは、「なべ底不況」で中断していた民間設備投資の再開と、池田のがむしゃらな「経済成長優先政策」だ。おかげで日本経済は再び活気を取り戻し、企業の成長だけでなく、個人消費も順調に伸びた。「消費は美徳」という言葉が流行ったのも、この頃だ。
他にも1958年から61年といえば、東京タワーが完成し、民放テレビ局が次々と開局し、巨人の長嶋茂雄が4打席4三振でデビューし、南極昭和基地のタローとジローの生存が確認された時期だ。
世の中ではフラフープが大流行し、「イカす」「シビれる」などの言葉が流行り、スバル360やスーパーカブが街中を走り回り、ファンタやチキンラーメンが発売された。
しかし残念ながら、岩戸景気の構造は「神武景気の続き」だ。ドルがたまって、中断していた輸入中心の設備投資が再開しただけだ。だからどうしても、最後にはドル不足から輸入が限界になる「国際収支の天井」にぶつかるのは避けられない。
結局この後には、また「なべ底不況」みたいな不況になるんだろうな――誰しもがそう覚悟した。しかしそうはならなかった。実はこの後、輸入や輸出とは無関係の好景気がやってくるのだ。それが「オリンピック景気」だ。
世界中に日本の復活を見せつけろ――東京オリンピック
1959年、西ドイツのミュンヘンで開かれた第55回IOC(国際オリンピック委員会)総会にて、東京はデトロイト、ウィーン、ブリュッセルを大差で破り、見事1964年の東京オリンピック開催を射止めた。
国内は沸きに沸いた。そしてそれと同時に、少し焦った。ヤバい、この夢の祭典まで、あと5年しかないぞ。5年後に世紀の一大イベントが東京で開かれる以上、それまでに大急ぎで国内を“化粧”しないと。せっかく世界中から多くの人が集まってくれるのに、日本が戦後丸出しのボロ雑巾みたいな国のままじゃ恥ずかしい。
「わっ、なんて野蛮な国でオリンピックをやるんだ!? とか思われたくない。なら、この5年でやれることはやらないと」
政府はただちに「東京オリンピック組織委員会」を結成し、オリンピック開催に必要な施設や社会資本の整備を大々的に始めた。その結果、日本武道館や国立競技場が造られ、ホテルや宿舎、観光施設が整備され、東海道新幹線や首都高速道路、営団地下鉄などが次々と造られた。
こんな流れでオリンピックの直前に、何だかんだトータルで一兆円規模の金が動いたとされる。しかも、その多くが社会資本の整備。つまり日本は、図らずも「一兆円規模の公共事業」を行ったのと同じ形になり、その景気浮揚効果で、岩戸景気後のわずかな不況をあっという間に払拭したのだ。
こういうラッキーな好景気がオリンピック景気だ。輸入に頼らない、国内完結型の好景気。日本経済はこれでさらに躍進し、世界45ヵ国に中継されるテレビ放送の中で、夢の祭典とともに、戦後の奇跡の成長ぶりを見せつけたのだ。
また国民の間では、この東京オリンピックを機にカラーテレビが大きく普及し、「テレビで観るオリンピック」の先駆けとなった。国民はお茶の間にいながらにしてオリンピックに釘づけになり、“東洋の魔女(女子バレーボール)”たちの活躍、マラソン・アベベの激走、柔道無差別級での神永vsヘーシンク、体操・遠藤の男子個人総合優勝、重量挙げ・三宅の金メダルなどに夢中になった。このオリンピックでの瞬間最高視聴率は85%を記録した。
そして東京オリンピック閉会直後の1964年10月、病気を理由に池田勇人は辞任し、後継に佐藤栄作を指名した。さらに翌年、池田はガンで死んだ。「経済大国ニッポン」の牽引者は、わずか16年で政治家生活の幕を閉じた。
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