それに対し、真実はこう答えた。
「うん。『民営化』って、実はドラッカーが編み出した言葉なの」
(民営化とは、私が『断絶の時代』〔一九六九年〕においてつくった造語である)(一二三頁)
「この民営化について、ドラッカーはこんなことをいっているわ──」
われわれには、資本形成に資する事業、すなわち利益をあげる事業として組織できるものを、資本を費消する事業、非営利の事業として運営する余裕はない。(一六四~一六五頁)
「どういう意味?」
「うん。NTTも国鉄も、民営化されるまでは国民の税金で運営──つまり非営利の事業として経営されていた。でもドラッカーは、せっかく利益を上げられる事業なのに、それを非営利にしておくのはもったいない、我々の社会には、もうそんな余裕はない──といったの」
「確かに、電話事業も鉄道事業も、それ単体で利益を生み出すことができるものね」
洋子のその言葉に、真実は頷くとこう続けた。
「私、これって高校の部活動にも当てはまるんじゃないかと思って」
「どういうこと?」
「高校の部活動って、これまでは先生や学校、あるいは地域や高野連といった大人たちが管理、運営する組織だったでしょ? つまり、大人がマネジメントする場だった」
「うん。確かに」
「でも、それだと『もったいない』と思ったの」
「ほう」
「だって、せっかく高校生がマネジメントを体験できる絶好の場なのに、それを大人たちに任せておくような『余裕』は、もう私たちにはないんじゃないかしら。つまり、これは野球部の『民営化』でもあると思うの」
「野球部の民営化! それ、面白い!」と言ったのは公平だった。「マネジメントを生徒たちの手に!──というわけだな」