リスク5.人件費の上昇
進出の理由の1番目に述べたように、ミャンマーの魅力は近隣諸国と比較しての人件費の安さだ。ただ、他の東南アジア諸国と同様に、ミャンマーにおいても給与水準は急激に上昇しており、雇用する側にとって頭の痛い問題になっている。
ミャンマーでは、2012年4月に国家公務員の給与が一律で、月額3万チャット(当時のレートで約3000円)引き上げられた。これは、原則すべての国家公務員に定額で適用され、従って低所得の下位の公務員ほど昇給率が高かった。また、3万チャットは、比較的賃金の低い工場での若手工員の約1ヵ月分程度、また一般の工員であれば1ヵ月の賃金の50%程度の金額だ。この給与引き上げは、国家公務員のみならず、ミャンマーの賃金水準全般に大きな影響を与えることになった。
ミャンマーに1999年から現地工場を構える医療用器機メーカーのマニー社も、当時の賃金上昇で苦しい対応に迫られた1社だ。現地で工場長を務めていた榎本氏は言う。「公務員の給料上昇による一般民間企業への給料のインパクトは、かなり大きかったですね。ミャンマーの人々は皆、『給料はそのくらいの額をもらえるんだ』というイメージとして受け取ってしまうわけです。ですから公務員とは働いている条件も全然違うことを説明しても理解されないですね。ただ単純に公務員がそれだけもらったのならば、自分たちのところでももらえるはずという意識がある。3万チャットの上昇で、それは一般の工員にとって50%程度の上昇を意味します。公務員の給与が(2012年の)4月30日に支払われた後、一般民間企業は相当苦労しました。その影響で、ミャンマーでは当時ストが頻発しました。そのため労働大臣がその説明に何ヵ所も回っていましたが、多くは経営側に協力を求める意味合いが強かったです」。
そうした中で、2013年春にミャンマーにおいて最低賃金法が制定された。ところが、最低賃金法は制定はされたものの、その時には最低賃金金額が具体的に決まっていなかったため、しばらくはたなざらし状態になっていた。その後、2015年6月には最低賃金を日給3600チャット(当時のレートで約340円)とする案が公表され、同年8月に正式に承認、翌月から適用された。この影響で、安価な人件費をベースとする縫製業界等においては、撤退を決めた会社も出ている。
労務コストの上昇の問題は、最低賃金に近いワーカークラスだけではない。むしろ最近の海外からの企業進出の進展に伴う、日本語や英語に堪能な優秀な人材に対する人件費の上昇も頭の痛い問題だ。昔から進出している企業が、新たに進出してきた企業に自社の従業員を高給で引き抜かれたという話を現地でよく聞く。特に中間管理職レベルで、日本語ができて、マネジメントができる層はそもそも絶対数が限られている中で、新たな進出企業からの引き抜きに対する予防のために給与を上げる必要もあり、結果として賃金上昇圧力は高まっているのだ。
2014年12月発表の日本貿易振興機構(JETRO)による、アジア主要国における製造業マネージャー月額基本給(図表1-19)において、製造業マネージャー(課長クラス)の月額基本給を見てみると、ミャンマーは他の周辺アジア都市と比較して、月額951米ドルと安価な水準のようにも見える。ただ、現地でのヒアリングや、実際に雇用した際のコストを聞くと、このクラスの比較的優秀なクラスでは、月額1000米ドル以上することも珍しくない。従って、実際の肌感覚での人件費はこのグラフ以上に高いと思われる。
このように、単純に給与が安いとのイメージで語られるミャンマーにおいても、現地での実情は必ずしも一概にいえるものではないことがよくわかる。加えて、今までは制度的に整備が遅れていたために、結果として軽視することができた福利厚生コストは、これから他国同様の整備が進むことにより、今まで以上に意識する必要が出てくるだろう。