任天堂、村田製作所の共通点は、
創業者が「素人」であるということ
任天堂の山内溥(ひろし)さんは、ゲームソフト関係ではたいへんな権威者のように見えますが、ほんの二〇年前までは花札とトランプだけをつくっておられた人です。花札、トランプは、印刷をした紙を何枚も張り合わせてつくっています。任天堂は、そのすべてを自前でつくっていたわけではなく、印刷は外部業者に出していました。つまり、祖父の代から、自社では紙の張り合わせと裁断だけをしていたのです。
山内さんがだいぶ齢を取られてから、タイトーという会社が、スペースインベーダーで大ヒットを飛ばしました。一世を風靡したゲームですが、ああいうものをやりたいと山内さんは始められた。山内さんもまた、ゲームソフトにはまったく関係のない素人です。
京セラと同じ電子部品をつくっている村田製作所というユニークな会社があります。京セラとはある種の競争関係にあるわけですが、たいへん立派な仕事をしておられる高収益会社です。この会社の村田昭(あきら)名誉会長は、旧制の商業学校を出られた後、京都の郊外にある山科(やましな)で、親から引き継いだ清水焼の焼き物屋をやっておられました。細々とお茶碗などをつくっておられたわけですが、戦時中、京都大学の電気の先生がそこを訪ねてきます。
当時、米軍を中心にエレクトロニクスがどんどん発達をしてきました。日本が第二次世界大戦で負けたのはレーダーがなかったからだと言われていますが、特にミッドウェイ海戦では、アメリカの艦隊は日本の艦隊が来るのをレーダーで全部とらえていたそうです。空母何隻、戦艦何隻、その艦隊が今どの辺に来ているのか、全部わかっていた。
一方、日本はレーダーをもっていませんから、偵察機を飛ばして周辺を回って敵の艦隊を調べる。それよりも遥か前にアメリカは日本の艦隊の全容を捕捉しており、日本艦隊は全滅させられるわけです。
当時はレーダーのことを電波探信儀と言っていましたが、B29などを撃ち落とした残骸から、それらしき機器が見つかりました。調べると、焼き物でできた部品が入っている。さらに調べてみると、それがすばらしいコンデンサだと気がつく。陸軍が各大学の先生にその研究を依頼したのですが、その一人であった京都大学の先生が、「同じものをつくってくれないか」と、わずか数人でやっておられた焼き物屋を訪ねてきたわけです。
村田名誉会長はたいへん好奇心の強い人で、ひと言「やりましょう」とやり始める。これが村田製作所の始まりになるわけです。しかし、そのコンデンサが完成をしないうちに終戦を迎えます。しかしその後、いわゆるラジオのブームが起こってきたとき、そのコンデンサをつくることによって今日の村田製作所をつくり上げてきました。彼も旧制の商業学校しか出ていない、エレクトロニクス、化学とはまったく無関係の、素人であったわけです。