「教養のために読書」?そんなのつまらない!
本を1冊読み終えるごとに、「身につくこと」は確実にあります。いままで知らなかった情報や知識であったり、自分にはなかった感性や価値観だったり……。手帳に1ライン・レビューが次々とたまっていけば、たくさんの本を読んできたという達成感と、記録が蓄積されていく満足感も味わえるでしょう。
ただ同時に、注意しなければいけないなと思うこともあります。それは、目的がぶれてしまわないかどうか。
読書量が増えていけばいくほど、より多くのものを得たいと感じるようになるのは当然のことだと思います。しかしその結果として、知識や教養を得ること自体が目的になってしまうことがあります。
たくさんの音楽を聴くうちに、ジャンルやアーティストの名前やその他の蘊蓄をため込んだ「音楽マニア」になる人がいます。音楽そのものを楽しむというよりは、音楽について知ることが目的になっているような人です。こういう人とつき合うのはちょっと面倒だったりしますが、もちろん楽しみ方は人それぞれですから、とやかくいうつもりはありません。
一方、本についても同じようなことが起きます。知識を得ることを目的にした読書が危険なのは、音楽の場合とは違って、その当人までもが傲慢になるケースがあるからです。
知識が増えたからといって、その人が偉くなるわけではありません。ブランド物をまとった人が「自分はおしゃれな人間だ」と勘違いするのと同じように、知識を集めることに酔った人は「自分は優れた人間だ」と思ってしまいがちなのです。
だからこそ、僕は「教養を身につけるための読書」とか「自分を高める読書」とか「現代を生き抜くための読書」というフレーズを聞くと、大いに違和感を覚えます。
もちろん、本を読んだ結果として、そういう効用が期待できることは否定しません。でも、これらはすべて本を読んだ「あと」のことにフォーカスしており、読むことそれ自体には価値を置いていません。教養を身につけたり、自分を高めたりするための、つらい修行のように読書を捉えているように思うのです。
でも、そんな読み方をしていたら、本が楽しめなくなりませんか?
「なにかのための読書」なんてつまらない!
「現代を生き抜く教養」を得る手段として本を利用しても、結果的に得るものは多くありません。それよりも、「たくさんの本を読む」プロセスそのものを楽しめるようになっていただきたいのです。