愛し合う理由
平野 数年前から恋愛とは何かを考えてきましたが、付き合っているときの喜びは、しゃべっていて楽しいとか、ささいなことではないかと気づきました。
岸見 愛があるからいいコミュニケーションができるわけではなくて、通じ合ったと感じる時に好きになる。何を話しているかは関係なく、一緒に穏やかに過ごしているだけで満たされる状態です。
平野 小説の中で、主人公たちが愛し合う理由はほとんど書いていません。実際彼らが会ったのは数回ですし、とにかく二人でしゃべっていて楽しいということだけが描かれています。それでも、多くの読者は、やっぱり「この二人が結ばれるべきだ」と感じたようで、連載中からたくさんの感想をいただきました。
岸見 セックスの話がないのも印象的でした。自由意志の恋愛において人がそこに気持ちをコントロールされることがない、ということですから。
平野 俗に「プラトニックな恋愛」というときれいごとのように聞こえるかもしれませんが、結婚したいと思う時、性的に結ばれたいという欲求はそこまで大きくないんじゃないかなと思いました。それから、読者の反応でもうひとつ印象的だった感想があって、それは不正な手立てで結ばれた恋愛は許せないというものでした。
岸見 たいへんなことをしてしまう、あの人物のことですね。
平野 はい。でも、もし自分の存在を肯定するなら、遡ってご先祖様の恋愛経歴を全部見ていくと、必ずしも常に正しい恋愛の結果で自分がいるわけではないでしょう。いま生きている人たちすべての命を肯定するという発想に立つなら、正しい恋愛でないといけないと果たしてどこまで言えるのか。
岸見 きっかけや原因より、結果的にいまこんなに良い関係になっていることを重視すべきでしょう。これまで決断の話をしてきたように「これからどうするか」ということは自分たちで決められるのですから。過去と未来の関係については重要な示唆がありましたね。作中の「未来は常に過去を変えている」という一文はアドラーもまさにそのように考えているので興味深かったです。
平野 そこも読者の反響が大きかったところです。僕もひと頃、アドラーを読んでいました。デビュー当時、「小説は終わった」という論調が強かったのですが、そう言っている人たちは、そう言いたいがために無理やり過去に原因を見いだしているように見えました。過去がこうだったから、いまの自分がこうなんだと考え始めると、因果関係の牢獄から抜け出せなくなります。それに反発したくて、近代文学を勉強し直したりもしましたが、そんな時にアドラーの著書を読んで視野がひらけたところがありました。