愛は「決断」なのか?
岸見 アドラーは、愛することは能力であり、「決断」だと言っています。相手を好きな理由が、別れた後は嫌いになった理由になったりすることがあるでしょう。たとえば、優しさが優柔不断に、頼りがいが支配的に感じられる……これらはすべて本人が好きになるかならないかを決断した後で持ち出される理由でしかありません。
平野 好きになる時は、無自覚に決断しているということですか?
哲学者。1956年京都生まれ、京都在住。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学。専門の哲学(西洋古代哲学、特にプラトン哲学)と並行して、1989年からアドラー心理学を研究。日本アドラー心理学会認定カウンセラー・顧問。世界各国でベストセラーとなり、アドラー心理学の新しい古典となった前作『嫌われる勇気』執筆後は、アドラーが生前そうであったように、世界をより善いところとするため、国内外で多くの“青年”に対して精力的に講演・カウンセリング活動を行う。訳書にアドラーの『人生の意味の心理学』『個人心理学講義』、著書に『アドラー心理学入門』など。『幸せになる勇気』では原案を担当。
岸見 はい。アドラーは意識、無意識を区別しません。あとから振り返れば決断したのだとわかる。もしくは、傍からみたら決断しているように見えるということです。
平野 愛は決断だというのを突き詰めると、誰でも愛することができるということになります。たしかに、祖父母世代ではそういう恋愛がありました。僕の祖父母も当日までほとんど顔も知らないまま結婚しています。でも、その後、いろいろあったようですが、愛し合うようになり、祖父が亡くなった時も祖母はしばらく立てなくなるくらいショックを受けていました。
岸見 誰でも愛せるといっても、そこに自由意志がないと言っているのではありません。愛されることは選べませんが、愛することは選べます。自分にいくら気持ちがあるからといって、相手に同じことを求めることはできません。相手の反応とは関係なく、自分の決断で関係を築いていこうとすることが重要だということです。
平野 それでもやっぱり、この人は好きになるけど、あの人は好きにならないというのはあるのではないでしょうか。
岸見 出会いの偶然を「運命」と思いたい時はありますよね。それに、妻や彼女に対して「誰でもよかった」なんて言ったら怒られてしまう(笑)。そこにはある種の「ゆらぎ」みたいなものはあるでしょう。アドラーも精神論だけで愛せると言っているわけではありませんし、結婚については「性」の問題は切り離せないとも言っています。
平野 愛することで満足を得られればいいですが、相手から愛されないと、継続性という面ではやっぱり難しいような気もします。
岸見 「愛しているから愛されるべき」と思っている人は多いです。でも、愛と尊敬は強制できないものなのです。
平野 それはその通りだと思います。僕は、「分人」(※)という概念を使って、自己愛のほうから恋愛を考えてきました。すると、この人といる時の自分が好きだからこの人が好き、というふうになります。これはたしかに自己愛的ですが、もし、相手から「あなたといる時は、自分が好きになれる」と告白されたら、そんなにいやな感じはしないんじゃないかとも思ったんです。この人にとって自分は必要なんだと納得できる。「こんなに愛している」と伝え合わなくても、関係が継続できるのではないでしょうか。
(※「分人」……状況や相手によって異なる自分になるという平野さんが提唱する概念。)
岸見 そこに尾ひれがつかなければいいですよね。でも、現実はそれでは済まないでしょう。もし、相手に妻子があったとして、会っているとき楽しかったらそれでいいかというと、そうはならず、次いつ会える? 会いたい時、なぜ会えないの?となってしまいます。
平野 そうですね。分人の構成比率とか会う頻度についての考えが近い人のほうが一緒にいて楽です。そもそも、そこが合わない人に対して、愛するという決断ができるのか。それとも、決断後どこかで調整されていくものなのでしょうか。
岸見 相手がいてくれて初めて自分が好きになれるということになると、それは依存になります。相手の存在なしには自分を肯定できないということになってしまいませんか。
平野 相手の分人の比率構成は尊重すべきで、過度な依存は相手をむしろ遠ざけてしまう。でも、他者性を一回経由して自己肯定に至るほうが、どうして他者が必要なのかということの根拠づけにもなると考えています。
岸見 なるほど。あなたがいるから私は存在できる。もはや一人だった時の自分を考えられない。二人が一緒に生きる、つまり主語が「わたしたち」になるわけですね。そうであれば、依存ではないですね。「不可分なわたしたちの幸せ」を築き上げることが愛だとするアドラーの考えにも通じます。