運命の人は一人?
それとも複数いる?
平野 アドラーは「不可分なるわたしたちの幸せ」を追求することが愛だとしていますが、それはつまり、私と他者の境目がなくなったほうがいいのか。それとも、あくまで他者だからこそ魅力を感じるのでしょうか。
岸見 完全な個人がくっつくというより、相手に自分の欠けているところを埋めてもらう、自分も相手の足りない部分も埋めていくというイメージです。その根源的なところが愛だと思います。
平野 そうすると、ぴたりと合うパズルの型みたいなのがあって、この人でなくてこの人がいいという話に戻っていきますね。「運命の人はいるのか、いないのか」というのもよく議論されますが、僕は、運命の人は一人ではなくて、複数の可能性はあると思っていて、やっぱりそこに、一握りの不合理というか、神秘が残り続けるのではないでしょうか。
岸見 もっといい人がいるかもしれないと思って、目の前の恋愛をさけようとしなければいいですが……。
平野 はい、人生を俯瞰して一人を選ぶことはできませんから。人間は偶然性のなかに生きていますが、それを必然であるかのように思うために愛があるのではないかとこの小説で書きました。
岸見 こんなふうに恋愛をとらえていけるのかと新しい発見がありました。
平野 テクノロジーが進歩してきて、社会が人間の自由をリスクとして計算し始めています。たとえば、もし自動車の自動運転が当たり前の時代になり、それでも自分で運転したいといって事故でも起こしたら、たいへんなバッシングに合うのではないかと想像します。また、アマゾンなどでも、事前にメールで商品をリコメンドされ、いかにもボタンを押したくなるような画面の中で、買い物をしています。一体自分の自由意志というのはどこまであるのか、ということをすごく考えさせられます。
岸見 自由意志の最後のとりでが愛です。愛する自由も、愛さない自由もある。そこに人間の尊厳が見られます。
平野 そうですね。愛だけは人間的なものとして残って欲しいという願いを込めて書きました。だからこそ、読者がそこに共感してくれたのがすごく嬉しかったです。
岸見 一般的な恋愛小説に期待されるような結末ではないかもしれませんが、救いを感じました。いま、この時代だからこそ、愛は重要なテーマだと思います。
(以上)