ツイッターを駆使し、最も必要とされているものを、最も必要としている人々へ届ける!
行動派社会起業家の東日本大震災体当たり支援レポート。
3.11から約1ヵ月間にわたる支援活動の記録を日誌形式で紹介する。

大地震発生!
12時間かけて栃木の自宅に帰る

■3.11
  あの大地震が起きたとき、僕は首都高の車中だった。葛西の付近だったか。ものすごい揺れ、車を停めて揺れが収まるのを待つあいだがひどく長く感じられた。道路には亀裂が入り、橋がゆがんでいた。

 避難用の階段で、老人や子供づれのファミリーから下の道に降りてもらうよう手助けしたが、その間も余震が襲ってくる。1時間ほどして「階段も危険だ! もう降りるな」と言われ、仕方なく車内へ戻り、渋滞の中をじりじりしながらほんの数十センチずつ進む。トラックが横転し、荷台から電信柱が崩れ落ちて道をふさいでいる。

 地震発生から4時間半後の19:20過ぎ、ようやく首都高速を出ることができ、一般道を栃木へ向かう。その途中も、いたるところで電線が切れ、信号が消え、道路が陥没している……あたりは真っ暗。それでも帰宅しようとする車で渋滞しており、ずーっとノロノロ運転だ。栃木県に入ったところでは、道路沿いの家が傾き、壁がひび割れだらけになっている。これはひどい。

■3.12
  明けて12日の午前3時過ぎ、ようやく帰宅。家の壁もひび割れが入ったりしていたが、家族はみな無事だった。だが、福島と仙台在住のJapan元気塾の仲間、親戚と連絡がとれない。ツイッターには、刻々と安否情報を求める声、支援金・支援活動者の募集、「電気が来ていません!」という病院からの悲痛な叫びが入ってくる。そしてテレビでは地震に引き続き、津波に襲われた町の壮絶な光景が! 僕はツイッターにこう書いた。

「今日の予定はすべて中止。いまは特に! 情報共有、支援、発信と繋がっていきましょう。こちらはいつでも準備万端です! どこでもいけます! なんでもやれます!」(3月12日13:15)

 僕の会社がある栃木県日光市から福島県までは車で2時間。被災地のそばにいる自分は、広がり続ける被害に何ができるのか? 土建業者として、道路の改修やがけ崩れに対応する技術はある。Japan元気塾で仲間と色々な啓蒙活動に取り組んできた経験もある。福島、仙台のJapan元気塾の仲間にも親戚にも連絡がとれないとなれば、もうじっとしていられない。