2008年の国民経済計算の改定を反映した結果、アメリカのGDPは2013年に4000億ドルも急上昇した。「研究開発費」が「費用」から「投資」扱いになったのが主な原因である。新刊『経済指標のウソ』の著者、ザカリー・カラベルは、「GDPなどの主要指標はほどんどが1950年代に考案されたものであり、経年劣化の兆候を見せている」という。どういうことか(『経済指標のウソ』から一部を特別に公開します)。

経済指標が登場するまで
そもそも「経済」は存在しなかった

(写真はイメージです)

 主要経済指標(主要指標)は、日常生活や、さまざまな出来事に対する私たちの認識と密接に結びつくようになった。人類史の大半においては指標が存在していなかったこと、指標が登場するまでは「経済」もそもそも存在しなかったことは忘れられがちだ。

2008~2009年にかけての金融危機は、「経済」が私たちの生活の中心を占めているという事実を思い知らせるものだった。経済との関わりは、もっぱら政府や業界団体、企業が定期的に発表する数字や統計を通して行われる。主要指標は、行く手を定めるために使うデータマップ(地図)なのだ。

 地図を維持する機関が、データの算出方法を定義し直すとしたら、私たちが現実をとらえる方法も変わることになる。

 アメリカのGDPが一夜にして4000億ドル増えたこと(第1回)についての経済分析局(BEA)の冗長な告示には、変更によって、私たちが個人や集団として生活をどう評価するかも変わってくるという事実が明示されていなかった。

 日々押し寄せる数字の波にはほとんど注意を払っていないとはいえ、影響を受けない者は皆無に近い。誰もが経済統計に翻弄されている。統計が示すものに基づいて成功や失敗を定義しない国は、世界にはほとんど存在しない。

 ヨーロッパ諸国は、債務の対GDP比に基づく経済政策によって低迷し続けている。中国でも、共産党幹部は、党の正当性を主張するために経済成長率目標を設定している。

 どの国の指導者も統計数字を頼りに強い経済を吹聴し、反対勢力は数字の低さをあげつらって現職を批判する。

指標は「絶対的な物差し」なのか?

 主要指標は、考案者が予想もしなかったほど大きな意味を持つようになった。どの指標も特定の目的で考案されたというのに、現在では経済活動を測る絶対的な物差しのように用いられている

 だからこそ、アメリカの経済規模が考えられていたよりも大きいというニュースは、多くの人々の失笑を買ったのだろう。「GDP増加―豊かになったかに見えてもだまされるな」といった見出しも登場した。

 オバマ政権が実績をよく見せるために数字を色づけしている、新方式は経済格差を広げるだけだ、など批判は多岐にわたる。

 言うまでもないが、「統計によれば、私たちは思っていたより豊かだ」と言われたところで、誰もが本当に豊かになるわけではない。あなたの財産は、5年前にあなたが考えていたより1000ドル多いと言われたとしても、急に預金が増えるわけではない。あなたが過去の業績を修正することもないだろう。

 BEAは、GDPの信頼性を維持するために算出方法を改定しただけではなく、1929年にさかのぼってすべての数字を修正した。

 その結果、1955年のワーナー・ブラザースによる大ヒット作への投資、20世紀半ばのヒューレット・パッカードやフォード・モーター最盛期の研究開発費はすべて当時のGDPに含まれることになった。

 主要指標に知識労働が統合されれば、経済における勝者と敗者の明確な区別がいっそう鮮明になる。

 GDPは国としての数字だが、国民全員に等しく当てはまるわけではない。これは、経済統計の見落とされがちな限界だ。

 つまり、私たちは統計が一人ひとりを測定しているかのようにみなすが、統計は私たちを全体として測定する。主要指標は、経済を一国のシステムとして測定するために考案されたツールであり、個人の経済生活を測定するためのものではない。

 アメリカでの2013年の改定は、新しいアイデアの考案者が、数字が示していた以上に利益を得ていたことを示すものだ。

 彼らの取り組みによって国が豊かになり、統計的には「1人当たりの所得」が増加するという事実は、国民一人ひとりが以前よりも豊かになったことを意味しない。

半世紀以上前の経済指標に
価値はあるのか?

 ほぼ1世紀のあいだに私たちの生活を測定するための統計が考案され、20世紀半ば以降、世界に対する私たちの理解は、統計数字によって統合的に形成されてきた。

 しかし、統計に基づいて作られた地図は、経年劣化の兆候を示している。複雑な世界をシンプルな数字で理解したいと願うあまり、私たちは経済指標にも歴史があり、考案された理由があることや、長所もあれば限界もあることを忘れがちだ

 私たちは、どのようにして、主要指標によって定義される世界で暮らすようになったのか。この答えを知ることが、指標の有効性を判断するための第一のステップだ。

 主要指標の歴史については、過去を未来への指針にしようとする研究者以外にはあまり知られていない。「経済」と私たちが呼ぶものを測るための統計は、未知のものを科学的に定量化して探究したいという情熱と、社会正義と公平を実現したいという進歩主義的な願望の産物だ。

 産業国家の測定を目的として20世紀半ばに考案された指標は、当時としては画期的だった。しかし21世紀の今は、当時とは状況が違う。産業国家は、サービス業が中心を占める先進経済と、多国籍企業による製品輸出を中心とした新興国経済とに道を譲った。

 20世紀に考案された統計は、現在をとらえるために設計されたものではない。担当者のたゆまぬ努力にもかかわらず、時代に追いついていないのだ。

 この連載では、主要指標とそれを考案した人々(ほとんどが男性だった)について語るつもりだ。世界恐慌や第二次世界大戦の頃に、一握りの政策決定者が用いた限定的ツールだった指標が、やがて世界中のほぼすべての国で、国民生活の幅広い側面に影響を及ぼす主要指標へと変貌する様子が明らかになるだろう。

 これらの指標がどのようにして国家の序列を決定し、政府が何兆ドルもの支出を決定(拒絶)するための議論に影響を与えるようになったのか、1つの小国を除くすべての国が、その成功をどのように測定してきたのかを見ていくつもりだ。

 主要指標の変遷をたどってみれば、現代をナビゲートするためにこういった指標を用いることは、1950年代の地図を用いて目的地を目指すのと同じだとわかるだろう。たどり着けるかもしれないが、迷う可能性のほうが高い。

 政府の経済政策が公約どおりの結果を出せない場合が多いのも不思議ではない。古い定式を新しい現実に当てはめているのだから。

 そうだとすれば、新しい定式、もっと優れた指標、新しい統計を見つけたくなる。生活を向上させるために新技術を求めるのと同じで、優れた指標の探求には価値があるに違いない。

 ただし、シンプルな数字や平均値だけで、世界や国の経済システムの多面性を把握できると考えるのは幻想だ。

 必要なのは、古いシンプルな数字に代わる新しいシンプルな数字ではない。どのような指標が必要なのかという問いに答えるためには、情報技術と私たち自身の地図作成能力とをうまく活用する必要がある。