カンボジアの草の根NGOの支援を終え、一度、日本に帰国した僕は幸運な出会いもあり、残りの一年で出版を目指すことに決めた。大学の後輩が友人を紹介してくれた、というまったくもって偶然のことからだった。
  こうして始まった取材の旅は、混乱の続くタイから始まった。まだ外務省から避難勧告が出されていた2010年6月、僕はバンコクに渡る。混乱の渦中でしか聞けないことがきっとある。そう考えていたからだ。

塹壕を越えて
銃撃に発展した衝突の直後のタイ特派員協会で

 焼け落ちたセントラルワールドビルのすぐ側にある、古汚い雑居ビルの最上階。ここに、海外からの特派員が集うレストランバーがある。

争乱のタイで見た、経済格差と可能性<br />――「社会企業」という一筋の希望騒乱で焼け落ちたセントラルタワービル、日本で言えば、「新宿の伊勢丹」というところか。 焼け落ちたビルを接写した写真はこちら

 各国から大勢のジャーナリストが訪れ、タイの騒乱で亡くなった記者の追悼を行うというので、場違いながらも顔を出した。

 この「追悼式典」が開催されるまでまだ1時間半もあるにもかかわらず、すでに30名を超える記者が訪れ、互いに議論を戦わせていた。周りには、タイやバンコクに関する取材記事が並べられていた。その中で一際目を引いていたのは、銃撃戦の中で亡くなった報道カメラマンの写真だ。

 騒乱が過激化した当日。対立する勢力の一角をなす「赤シャツ」の一人が、匍匐前進で地を這う。彼の後ろを追った赤シャツの隊員の一人は頭部に銃弾を受け、殺されたと書かれてあった。

国民が自国の目指すべき姿を議論し、
行動に移す、という行動力

 この写真を見たときの葛藤は、今も忘れられない。戦争を経ずに政権交代できる国、というのがいかにありがたいことか、と思い知らされた。だがその一方で、国民が自国の目指すべき姿を議論し、行動に移す姿が、うらやましくも思えた。

 目線をバーの入り口に戻すと、幾人かの人だかりができていた。古株だと思われるジャーナリスト同士が挨拶を交わしていた。欧米人が多いが、やはり、今日は特殊な日なのだろう。それから15分が経ち、現地テレビ局のクルーが入ってくるころには、会場にいる人は50人を超え、ウェイターは走り回り、会場の熱気は加速度的に増していた。おそらくは厳かな場でもあるのだろうが、このような場は、葬式のように旧知の人々の再会の場としても機能する。ざわめきが絶えず、旧交を温め、互いの無事を祝う言葉が飛び交っていた。

 アナウンスが始まった。と同時に、ざわめきが収まり、BBCの映像が流れる。平和だったバンコク市内で弾丸が飛び交う映像だった。男性が撃たれ、倒れる。建物が炎上する。そんな映像が、撮影したジャーナリストの言葉とともに繰り返し流れていた。

 実は、この映像とジャーナリストたちの言葉や振る舞いに嫌悪感を覚えていた。なぜ、人がまさに目の前で死のうとしているのに、手を差し伸べず、写真を撮ることができるのか、と。彼らの態度にはたしかに違和感を覚えた。だけれど、彼らの映像や写真に打ちのめされ、それが記憶に焼き付いたのも事実だ。

 タイでは今も騒乱が覚めやらぬが、かつての日本の明治維新のように、人々は議論を交わし、新たな社会像を模索しつつある。それを伝えることも一つの社会の変え方なのかもしれない、と理解を示せるようになったのは、本を書き上げた後のことだった。