実名を晒すことで失われる本音
最近になってまた、「ソーシャルメディアには実名で参加するべきだ」という主張が目立つようになってきました。そのうちのほとんどは、ソーシャルメディアの経験が不足していることによる「人は実名じゃないと信用できない」という素朴なものです。それらの主張は、属性をとり払った際に現れる個性豊かな本心、個人に帰属しない真剣なオピニオンがあることを知りません。
このほかにも一部の有名人による主張もあります。それは、自分が誹謗中傷や無責任な意見を受けた際、その発言者を特定し反撃や反論ができないことへの苛立ちから来るもので、「意見を述べるのであれば、実名でせよ。議論にならない」というものです。
しかし最近になって、このどちらでもない主張も現れるようになりました。その主張は一見、匿名性を否定しているように聞こえますが実際はそうではなく、よく聞いてみるとその否定の対象は社会との断絶にあります。
つまり、匿名性の“繭”の中にいては社会と無縁なままになってしまう。逆に、実名性を高めると本人到達度が上がる。実名で参加すれば社会との断絶はなくなるであろうという主張です。つまり、「実名は社会とつながる」というものです。
匿名に隠れる弱さを糾弾する正義を身にまとったこの主張は、個人にとって強引で乱暴な提案になってしまっています。そもそも、個人が実名性を高めた状態でソーシャルメディアに参加することには大きな危険がともないます。
たとえば、子供の写真やよく行く公園を紹介しただけでも、誰かが子供に名前を呼びかけて接触することはたやすくなります。今後、このような個人の情報開示にともなう事件が多発するだろうと思われます。そのようなリスクを負ってまで、なぜ情報発信をするのか? その動機が問われるようになります。
実名性を擁護する主張には、個人が抱えるリスクのほかに、もうひとつの重大な問題が未解決なまま残ります。それは、有名人のように自分のまわりに大きなネットワークを持たない個人が情報発信を行っても、社会からの注目を集めることは難しいという現実です。そのままでは社会とつながるどころか、社会と断絶していることを再確認する場になってしまいます。