他人の置かれた立場を想像するのが共助への一歩

 共助を実現するときの「根っこ」とはいったい何なのでしょうか。

 宮崎さんの著書では、文化や歴史や伝統、あるいは同じ地域に長く住んでいるつながりなど目に見えないものではないかという程度にとどめられています。ただ、都会ではそうしたものはほとんど消失しています。自然発生的なものでのつながりはあまり期待できないので、何か人工的に設定する必要があるのかもしれません。

 そうした動きも起こり始めています。シングルの女性を機械的にグループ分けし、災害などがあったときに連絡を取り合おうという動きがあります。インターネットが新しい共助の仕組みを作り出している事例もあります。これを見ると、多くの人が共助を求め、重要視する意識を持っているのは確かなようです。しかし、現実には共助の社会はなかなか実現しにくいものです。

 福祉やボランティアに携わる人は、「誰だって、明日はそうなるかもしれない。決して他人事ではないんですよ」という言い方をすることがあります。このような呼びかけが響く人もいますが、一方で、こころの奥底にある不安をほじくり出されるような気持ちになり、遠ざかってしまう人もいるでしょう。

 逆にノブリス・オブリージュのような考え方はどうでしょうか。社会で不自由なく生活できる人はその人の努力の賜物であると同時に、努力できる環境があったという「運」にも目を向けてみます。そうすると、たまたまその人は、努力する環境恵まれ、また社会的にも家庭的にも身体的にも、自立していくために必要な時間を確保できたという見方もできます。そうやって、社会で活躍できる人が共助の精神を発揮するのは、普通のことと捉えられます。しかし、このような考えもまだ日本では浸透していないようです。

 震災の復興支援では多くのボランティアの方が力を発揮しました。それは高揚感を得たり、自己の存在意義を確認したりする人たちだけで成り立っていたのではなかったでしょう。

 実際に復興支援に携わっている人の多くは、それらとは無縁なところで、被災者の悲しくて苦しくて辛い気持ちを想像しながら一歩を踏み出しています。これこそが、本当の意味での共助の芽生えなのではないかと思うのです。