自助努力だけに光が当たる現代社会

 たとえば、ある企業に勤務する人がうつ病になったとします。それを契機として企業が働き方を見直し、従業員のこころをケアするシステムを新たに作るケースがあります。何か事故が起こった場合、安全策が講じられて社会的な不安が解消されることもあります。

 もちろん、病気になった方の不幸や事故の被害に遭われた方の悲しみや憤りは拭い去ることはできません。

 ただ、それとはまったく別の視点で見ると、何か問題を抱えたり、躓いたり、病気になってしまう人は社会に警告を発する存在でもあるのです。それによって社会が何かを考え直す契機となり、間接的には社会の発展につながることもあると考えられます。

 犯罪は、貧困や病気などと同列に論じることはできませんが、ときに同じような意味も持ちます。人が罪を犯す要因として、犯罪者個人の問題も大きいでしょうが、貧困や差別などの社会問題が横たわっている可能性も否定できません。犯罪もそれを犯した個人の問題として考えるだけではなく、それを生み出した社会の問題として光を当てる視点も必要なのではないかと思います。

 近年、あらゆる面で問題の要因を、個人の側に求めてしまう傾向が進んでいるような気がします。ニートやネット難民の問題も、そうせざるを得ない若者を生み出した社会の問題として捉える視点は薄れつつあります。宮崎さんが指摘されているように、自助の名を借りた自己責任論が強まっているようです。

 日本人はいざとなったら国が救ってくれるという受け身の姿勢が強い。それではいずれ立ち行かなくなるので、自分から働きかけて声を上げることも必要だ。宮崎さんはそう批判しています。私もその指摘には同意しています。

 すべてを社会のせいにするのはやりすぎです。ただ、一方で思うのは、個人の自助努力だけに責任を帰すのもやりすぎではないかということなのです。