自助が求められる一方で個人の自由も制限される
原因は個人にあり、自助努力ですべて解決できるという考え方は、アメリカの資本主義社会の最先端をいくようなスマートさを感じる人もいるかもしれません。市場での競争が社会をよくするという新自由主義的な考え方です。
ただ、自由主義という名を冠しているわりには個人の自由が制限されていると感じざるを得ません。本来の自由主義はいろいろな人がいて、その人たちのいろいろな意見を尊重する考え方のはずです。
しかし、いまの日本は個性や個人の意見が認められにくい社会になっています。個人の権利が狭められているのに、逆に個人の義務や責任が重くなっている。つまり、現代は自助努力が求められていながら、個人の自由が制限される社会なのです。
「空気を読む」という言葉が、当たり前のように蔓延しています。このことじたいが、個性を発揮しにくい社会である証明にもなっているのではないでしょうか。
同調を強いられる社会には息苦しさを覚えます。かといって、すべてを個人の問題にしてしまう社会には違和感も覚えます。健全な社会とはいったい何なのか。果たして、個人の自由や価値観を認め合いながら、共に助け合う社会は築けないものでしょうか。