ベストセラー『ファイナンス思考 日本企業を蝕む病と、再生の戦略論』の刊行を機に、さまざまな実務家やアカデミアの皆さんを迎え、著者・朝倉祐介さんとの対談をお送りする本コーナー。今回は、明石家さんまさんのテレビCMでもおなじみの高性能な翻訳機「ポケトークW」を開発して大ヒット中のソースネクスト代表取締役社長、松田憲幸さんをお迎えし、ポケトークを大きく育てるために行った増資の背景や松田社長がリーマンショックで得た教訓などを伺っていきます。(構成:大西洋平、撮影:野中麻実子)

シリコンバレーに移住したトップセールスの威力

朝倉祐介さん(以下、朝倉) 松田社長は2012年から活動拠点を米国に移されましたが、日本国内事業を中核とした上場企業で、現任の社長が海外に住んでいるケースは珍しいのではないでしょうか。その狙いは、どのような点にあったのですか。

松田憲幸さん(以下、松田) とにかく、シリコンバレーには世界有数のIT企業が集中しています。グーグル社やフェイスブック社、アップル社はもちろん、マイクロソフト社やアマゾン社など西海岸の企業もシリコンバレーに大きな支社を置いている。アラブに石油が集まっている以上の集積度だと思います。そのため、この世界で成功するにはシリコンバレーに住むしかない、という大胆な仮説のもとに移住しました。

朝倉 ふつうは、「社長は本社にいてください!」と言われそうなところですが、反対はなかったですか。

翻訳機ポケトークはシリコンバレーに住まなければ生まれていなかった松田憲幸(まつだ・のりゆき)
ソースネクスト株式会社代表取締役社長
1965年兵庫県生まれ。大阪府立大学工学部数理工学科を卒業し、同年日本IBMに入社。 1996年8月、ソースネクスト株式会社を創業し、2008年に東証一部上場。業界常識を打破した更新料0円のウイルス対策ソフト「ウイルスセキュリティZERO」をはじめ、累計5000万本以上のソフトウェアを販売。2017年12月には通訳機「POCKETALK(ポケトーク)」を発売し、IoT事業にも参入。現在に至る。

松田 社外取締役の弁護士・久保利英明さんも、「世界で成功するには、必要だ」と背中を押してくださいました。
 シリコンバレーに拠点を移す狙いは二つありました。ひとつは、優れたソフトウェアの販売権を獲得すること、もうひとつは成功する経営の秘訣を知ることです。
 最初の狙いについては、シリコンバレー・パロアルトに住んでいたほうがはるかに有利でした。IT系企業の本国のCEOクラスが、年1~2回はサンフランシスコかシリコンバレーにやってきますから、「Nori、来月行くけど会えないか」と声をかけてもらえてすぐに会えます。しかも、ファウンダー(創業者)みずから交渉することがことのほか重要で、その場で話が決められる。むしろ日本の本社には16年間一緒に働いてきた信頼できる仲間がたくさんいます。米国で新たに雇った人に米国での開拓を任せるより、日本のことを信頼できる仲間に任せて、私が行くほうが合理的です。

朝倉 多くの大企業では、部長クラスの人を2年のローテーションで恐る恐る派遣するというパターンになりがちです。

松田 そういう方法で、成功した例を私は聞いたことがありません。ソニー創業者の盛田昭夫さんも、ご自身がニューヨークに住まわれて販路を開拓されました。朝倉さんも米国での在住経験があるので想像できると思いますし、私も住んでみてあらためてわかったのですが、米国のビジネス界ではファミリー同士の付き合いになるので、現地で「生活している」ことに意味があります。それまで難航していた交渉が、ファミリー同士が顔を合わせるホームパーティーを経て、翌日には契約が決まっていたというケースもありました。

ポケトークは日本にいたら生まれなかった

朝倉 米国には、日本のような職場同僚との「夜の飲み会文化」はありませんが、「週末のホームパーティー文化」はすごく根づいてますよね。日本と形態が異なるだけで、人間関係によってビジネスが進んでいく点は同じなのかもしれません。

松田 はい。ただ、家族を巻き込む、というところが大きな意味を持つと思います。日本ですと、ビジネス上や同じ会社で長い付き合いがあっても、その方の奥様の顔を知らないというケースは少なくないと思います。その意味では、シリコンバレーのほうが日本よりもはるかに村社会なのかもしれません。

翻訳機ポケトークはシリコンバレーに住まなければ生まれていなかった朝倉祐介(あさくら・ゆうすけ)
シニフィアン株式会社共同代表
兵庫県西宮市出身。競馬騎手養成学校、競走馬の育成業務を経て東京大学法学部を卒業後、マッキンゼー・アンド・カンパニーに入社。東京大学在学中に設立したネイキッドテクノロジーに復帰、代表に就任。ミクシィ社への売却に伴い同社に入社後、代表取締役社長兼CEOに就任。業績の回復を機に退任後、スタンフォード大学客員研究員等を経て、政策研究大学院大学客員研究員。ラクスル株式会社社外取締役。株式会社セプテーニ・ホールディングス社外取締役。Tokyo Founders Fundパートナー。2017年、シニフィアン株式会社を設立し現任。

朝倉 確かに、それは感じました。米国に住む狙いの二つ目に挙げられていた、経営の秘訣もかなり得られましたか。

松田 はい。いいコンテンツを仕入れる、成功している方の経営のノウハウを得ることがアメリカに拠点を移したことの最大の目的でした。
 アメリカで生活することで、日本でも導入したらよいと思える取り組みやツールを知ることができました。その1つがストックオプションです。弊社では、2012年から、全社員にストックオプションを配ることにしました。米国では当たり前ですが、日本の上場企業では非常に珍しいのではないでしょうか。

朝倉 企業価値を上げる仕組みや企業売却に対する意識は、日米で大きく違いますよね。

松田 はい。ほかに日ごろのビジネス習慣上も学ぶ点は多かったです。たとえば、移住した頃は、日本では海外との電話会議というとSkypeが主に使われていましたが、米国ではブルージーンズなどサーバー型IP電話が普及していました。Skypeですと多くの人が同時に参加した時点で通話に支障をきたしがちですが、サーバー型なら航行中の飛行機内Wi-Fiでも途切れることなく会話が可能です。さっそく当社のテレビ会議にもすぐに導入しました。仕事をより効率的に進められるスゴイ道具があることを知ったことも、大きな収穫だったと思います。日本には刀しかないが、米国に行ったら鉄砲があったような驚きでした。

朝倉 ポケトークWの成功にも、シリコンバレーでの暮らしが役立ったでしょうか。

松田 そう思います。ポケトークWは日本を拠点にしていたら難しかったでしょう。というのも、ひとつのプロダクトを作るにも世界中のさまざまな技術が必要なので、各社と交渉しなければなりません。先ほども申し上げたとおり各社のトップ級が集まってくるシリコンバレーだとキーマンに会いやすいですし、会えばディールが成功する確率も増やせ、結果として成功できます。今後、世の中にどのような製品・サービスが広がっていくのか俯瞰するうえでも、シリコンバレーはその最も上流に位置しているので、何が外れて何が当たるのかといった見当がつきます。ポケトークWもこういうレベルの製品を作れれば、世界一の翻訳機として通用するだろう、ということが見通せる。グローバルに販売するにあたっても、シリコンバレーにはFITBITやGoProの製品のように、すでにグローバル展開している製品の企業から教えていただくことができます。

リーマンの教訓から実施した50億円の増資

朝倉 ポケトークWでは、明石家さんまさんを起用した大々的なCMも展開されていますし、まさに誰もが使う標準機器としての認知を目指されているんだ、と感じます。

松田 グローバル展開するにあたって、新株予約権による増資で約50億円を調達しました。お陰様で売れ行きも好調ですし、競合も出てくるなか今後の勝負をかけるために実施しました。これは、2008年のリーマンショック時に、資金面で非常に苦しんだときの教訓に基づいてのことです。
 朝倉さんの著書『ファイナンス思考』でも主張されているように、長期的に成長を見通すファイナンス的発想は経営に不可欠ですが、充分な自己資本とキャッシュが必要です。充分な自己資本とキャッシュがない状況では企業の存続すら危うくなる。あの時のような危機を繰り返したくない、という強い思いが私の中にありました。上場した時になぜもっと資金を確保しなかったのか、と自問自答してきました。

朝倉 自己改革されている企業の多くが、リーマンショックのときに経営危機を経験されたことが原動力であり、強烈な学習体験になっている、とおっしゃいますね。

翻訳機ポケトークはシリコンバレーに住まなければ生まれていなかった実地で経営を学んだきた、という松田社長

松田 私は根っからの理系人間でシステムエンジニアですので、正直申せばファイナンスの思考なんて持ち合わせていませんでした。商売人の素養があったとしたら、せいぜい関西人だったことぐらいです。5~6歳の頃から会社四季報が常にあり、親に言われて、保有銘柄の株価の推移グラフ等を毎日作ってはいましたが。
 そのため、株のことはわかっても、B/S(貸借対照表)やP/L(損益計算書)は創業まで詳しく知らなかったわけです。すべて実際の経営を通じて学んできました。自己資本を増やすには3つしか方策はなく、(1)利益を上げる、(2)増資をする、(3)簿価が安い資産を売る、という中で、今すぐできることは(3)だ、といった感じです。B/Sの現金、自己資本、それからGC注記(ゴーイング・コンサーン注記。継続企業の前提に関する注記。倒産可能性があるほどの、急激な収益の減少、過大な借入金などがある場合に財務諸表に付記される)を2009年3月期のときほど何度も見直したことはありません。

朝倉 GC注記、嫌ですよね…

松田 今になって、『ビジョナリー・カンパニー』4部作(ジェームズ・C・コリンズ著)を読み返して、その中に「実は本当に成長した会社はあまりリスクを取っていない」という記述がありました。正確に言えば、リスクを取ってはいるが、事前に酸素ボンベをたくさん積み込んで備えている、というわけです。危なくなった会社は酸素ボンベを積まずにリスクを取り、結局は失敗している、と説いていて、まさにそのとおりだったと痛感しました。アマゾン社が成功した理由も、最初の段階で資金を十分に調達し、自己資本をしっかりと確保できたからです。それがなく、ただ赤字を続けていたら債務超過に陥ります。ソースネクストがさらに成長していくためにも、「いい時こそ、自己資本とキャッシュを確保しておくこと」ということが今までの最大の学びです。