真面目に働いている人が、どうして豊かになれないのか?

「好きなことが見つからない」なら、とにかく動いてみる本田健(ほんだ・けん)
作家
経営コンサルタント、投資家を経て、育児生活中に作家になるビジョンを得て、執筆活動をスタートする。「お金と幸せ」「ライフワーク」「ワクワクする生き方」をテーマにした1000人規模の講演会、セミナーを全国で開催。インターネットラジオ「本田健の人生相談~Dear Ken~」は3500万ダウンロードを突破。著書は、100万部を突破した『ユダヤ人大富豪の教え』(大和書房)など、著書は130冊以上、累計発行部数は700万部を突破している。2017年にはアメリカの出版社Simon & Schuster社と契約。初の英語での書下ろしになる著書はヨーロッパ、アジアなど世界25ヵ国以上の国で発売されることが決まっている。(Photo by 森藤ヒサシ)

本田:一橋大学を卒業後、日本開発銀行に入られました。どのようなことを考えて、日本開発銀行を選択されたのですか。

竹中:学生時代から、「フォー・ザ・パブリック」という気持ちがあったからです。私の父親は、兵隊に徴兵されて戦争に行き、戦争が終わってから、無一文の中で私たちを育ててくれました。
父親の背中を見ながら、「こんなに真面目に働いている人が、どうしてもっと豊かになれないのだろうか。どうしたら世の中はもっと良くなるのだろうか」と、そんなことをいつも思っていましたね。それが、フォー・ザ・パブリックの原点です。

本田:公務員になろう、というお考えはなかったのですか?

竹中:田舎の商店街で育った人間からすれば、役人にはなりたくなかったんです。昔は、「役人は、悪いやつだ」「役人は、どこかいかがわしい」と思っていましたから(笑)。それで、政府系の金融機関を選んだんです。
それに、日本開発銀行には私のあこがれだった、下村治(しもむら・おさむ)さんがいらっしゃいました。下村さんは、池田勇人内閣の「所得倍増計画」の理論的支柱として、1960年代の高度経済成長を予言した経済学者と言われています。私がエコノミストを目指したのも、「下村さんのようになりたかったから」なんです。
下村さんは、「日本の経済を強くしたのは、設備投資である」と考えていました。だから私は、「日本の設備投資とアメリカの設備投資の違いについて比較研究をしたい」とハーバード大学に申し入れて、留学する機会をいただいたんです。29歳のときでした。

本田:「グローバルに活躍したい」という想いは、いつからお持ちだったのですか?

竹中高校時代に「東京に行かなきゃ、人生ははじまらない」と思ったように、大学時代には「アメリカに行かなきゃ、人生ははじまらない」と思ったんです。そのころ、アメリカの存在感って、まさに、圧倒的でしたから。
私が大学3年生だったとき、「ニクソン・ショック(1971年)」が起こって、それまでの1ドル=360円の固定相場制から、一瞬、変動相場制になって、そのあとで308円という「スミソニアン・レート」になった。ところが、その2年後の1973年完全な変動相場制になるわけですが、私はもう、びっくりしたわけです、「為替レートって、何だ! どうして毎日レートが変わるんだ!」って。
「ニクソン・ショック」は、世界に対するショックであったと同時に、私に対するショックでもあった。世界に対して、私の目をパッと開かせてくれましたから。