自分がさらされるということ。
それは福音なのか、疲れのもとなのか
「Facebookをやるようになってから、自分がどう思われるかについて、以前より気にするようになったんですよね」
これは、実際にソーシャルメディアに関する講演などの現場で、よく耳にすることだ。
FacebookやTwitterに投稿するようになってから、いままでになく自分がさらされるようになったと感じている人は、かなり多い。それも初めは、新鮮だった。自分という人間、自分が発するものに、人が目を向けてくれる。ささやかな日常や、ちょっとした自分の考えに、誰かが賛同してくれる。時には、思いがけずたくさんの人の支持が集まることもある。それらは、今までにない満たされた気持ちをもたらしてくれた。ああ、これが「つながる」ということなんだな――。
にも関わらず、ちょっと疲れを覚えるようになったのはなぜだろうか。
Facebookの中で、賛同してもらえる自分を意識的に作るようになったから?
多少なりとも、ウケのいい自分作りに勤しむようになったから?
実名制で、プロフィールも公開しているため、下手なことは書けないから?
確かに、これらの視点はある程度は正しい。つながることと引き換えに抱え込んでしまったジレンマだとも言えるからだ。
とはいえ、誰かもわからない人にけなされた経験なんて、今までにはなかった。「Twitterをやってから、初めて見ず知らぬの人に自分の投稿をけなされてヘコんだ」、なんて話はもはや珍しくない。
つながることは、裏を返せば「さらされる」ということ。そのソーシャルメディアの「裏の顔」がもたらす「疲れ」は、多くの人にとっては初めて味わう類いの「疲れ」だ。
サナカクションというロックバンドがいる。彼らの「エンドレス」という曲の歌詞に、次のようなフレーズがある。
「誰かを笑う人の後ろにもそれを笑う人 それをまた笑う人と悲しむ人」
「後ろから僕は何て言おう? 後ろから僕は何て言われよう?」
ソーシャルメディアの中で自分がさらされる。さらされること、それにより時に、自分のコンテンツ(コメントや写真)が揶揄され、さらにそれを揶揄した人もまた揶揄されていく。そのように、「人の目」によって「自分(のコンテンツ)」が無限にさらされ、拡散されていく場所の中には、福音だけではなく一定のリスクがあるし、それが疲れのもととなる。そのループの中に自分が生息し、自分をさらし続けることの息苦しさを、人は感じ始めているのかもしれない。
先ほど引用した「エンドレス」という曲も、まさにそのような状況を意図して作られたようだ。その息苦しさを表現した歌が、若い世代を中心に支持されているのも、今の時代ならではと言えるだろう。