「さらされる時代」をどのように生きるか
――自分なりの「膜」を持とう

 自分もその人間関係もさらされるソーシャルメディアの時代。時にポジティブに、時にネガティブに作用するその狭間で、人は戸惑い、疲れを覚える。その毒性に蝕まれず、うまく「薬効」を享受する。そんな知恵と工夫が、ソーシャルメディアの中で過ごす上で必要だ。

 ソーシャルメディアの「薬効」は、たとえば情報収集やコミュニケーションを豊かにすることにある。

 僕の知人の中には、TwitterとFacebookさえあれば、情報収集と発信、コミュニケーションには困らないと豪語する人もいる。もはや、ビジネス上の重要な人脈もFacebookの中に持ち込み、アポイントもその中でやり取りしてしまう。ビジネスもプライベートも、たいていの情報共有はその中で済ませている。もっとも、彼は会社の経営者であるし、人前に出ることが多い立場の人間だ。どちらかといえば、さらされることのメリットがあるし、それに慣れてもいる。だから、その「薬効」を目一杯に享受しているように映る。

 しかしどうだろう。一般的には、「毒」の方を意識する人が多いはずだ。

 大企業に勤務している僕の友人は、まさにそうだ。Facebookの個人アカウント上で会社名を出してよいか否かは、会社では特に定められてはいない。ただ、プロフィールはなるべく入れた方がいいと聞いたことがあるので、一応勤務先を入れている。生年月日、血液型、住んでいる場所、出身校、自己紹介なども公開している。

 ここまでプロフィールを公開していることで、彼はリスクを意識せざるを得なくなったという。それがお堅い企業の勤め人の性だ、などと彼は自嘲する。会社の上司や同僚に見られている可能性を考えると、ざっくばらんなプライベートは露出しにくい。友達向けに仕事のちょっとした話も書き難い。仕事に関しては、社内機密だらけだから当然だ。

 多種多様な関係にある人々の目に触れる中で、プライベートのことも仕事のことも気ままに投稿することははばかられる。結果的に、なんとなく奇麗ごとばかりの投稿になる。彼の場合は、「毒」を恐れる側面が強いように映る。

 この対極にいるかのような2人については、実は善し悪しでは語れない。

 大事なことは、ソーシャルメディアの中でのさらされ方において、「自分なりの膜」を持つことなのだ。露出を高めたければ薄い膜、露出を弱めたければ厚い膜と、自分に適した形で持つべき膜を調整する。それは、利用するソーシャルメディアでのつながりをもっと小規模なものに変えることなのかもしれないし、投稿内容やスタンスを変えることなのかもしれない。

 とにもかくにも、まずは「疲れ」の正体を知り、その処方箋としての選択肢を知ること。この連載では、少しでも楽にソーシャルメディアに接することができるように、この2点に絞って追っていくつもりだ。次回は、ソーシャルメディア上に存在する「アイデンティティの仮面」の正体に迫る。

 

※本連載は毎週金曜日に連載します。次回掲載は、6月29日の予定です。