「活動家」から「政治家」に
成長しようとした若者を排除

 中国共産党の「失敗」は、14年の「雨傘運動」が終結した時に、実は始まっていたのではないかと思う。雨傘運動から1年後の15年、私は香港を訪問した時、雨傘運動の広報役を務め、女神と呼ばれた周庭(アグネス・チョウ)さんと初めて会った(第116回)。

 それは、雨傘運動が解散した後、多くの学生は民主化運動に希望を失い離れていった時だった。アグネスさんは、「香港の民主主義は、『AKB総選挙』のようなものです。一見、普通の選挙が行われている。だけど、最後は秋元康さんが全部決めている。香港も、一見普通の選挙が行われているようだけど、実は共産党が全部決めている」と自虐的に語っていた。また、彼女が「暴力」による政治活動を肯定していたことが印象的だった。公正な選挙のない香港では、暴力によって民主主義を勝ち取るしかないと訴えていたのだ。

 だが、15年4月、アグネスさんや羅冠聰(ネイサン・ロー)さん、ジョシュアさんら運動の中心メンバーらは「デモで選挙制度は変えられなかったが、将来を自分たちで決めたいなら若者の政党をつくるべきだ」と考え、新党「香港衆志」を結成した。香港では、満21歳から被選挙権を得られる、香港立法会への立候補は、彼らにとって現実的な目標となり得るものだったからだ(第141回)。

 16年9月4日に香港立法会(香港議会)選挙が行われ、香港衆志のネイサンさんが23歳の史上最年少当選を果たすなど、民主派の若者らが6議席を獲得した。彼らを含む「反中国派」全体で30議席を得て、法案の否決が可能になる立法会定数70議席の3分の1(24議席)以上を占める画期的な勝利となった。

 しかし、その後ネイサンさんを含む民主派議員8名は、中国を侮辱する言動を行ったとして、議員資格を取り消されてしまった。また、アグネスさんは18年4月の香港立法会議員の補欠選挙に、弱冠21歳の現役女子大生として立候補しようとしたが、当局によって立候補を差し止められた。彼らの政治家になろうとする志は、香港政府とその背後にいた中国共産党によって、踏みにじられることになったのだ。

「政治家」になろうとした民主化勢力の若者を議会から排除して「活動家」に戻してしまったことは、中国共産党の「失敗」だった。彼らが「中国を侮辱した」というが、それは日本ならば議会内での「野党の批判」であり、「言論・思想信条の自由」の範囲内で、何ら問題にならない程度のものだ。

 香港衆志のホームページをみれば、彼らが「雨傘運動」で訴えた、共産党政権による香港行政長官選挙の制度改革への反対だけにとどまらず、住宅や福祉、教育などあらゆる分野の政策構想を作っていることが分かる。

 17年にインタビューした時は、アグネスさんは「香港の社会保障政策が外資の大企業優遇であり、平等なものではない」と訴えた。私が初めて会ってから2年が経ち、彼女は明らかに、かつて「暴力革命肯定論」さえ口にしていた活動家から、政治家への変貌を遂げようとしているようにみえた。

 議会の中で民主的に政策を実現する「政治家」を目指すようになっていた若者を議会の外に追い出さなければ、「逃亡犯条例」の改正案についても、もう少し建設的な議論ができたはずだ。不透明な中国の司法制度に市民が巻き込まれる恐れを払拭して香港の民主主義を守ることと、香港を中国本土からの犯罪者の隠れ場所にしないようにすることを両立させるために、どこで折り合えるかを「政治」で決めることができたのかもしれない。