「最大多数の最大幸福」を実現するには?
「彼の回顧録によれば、この一文に出合った瞬間、彼は感動のあまり『エウレカ!』、つまり『我、発見せり!』と大きく叫んだそうだ。もっとも、さすがにアルキメデスのように裸で走り回ったりはしなかったようだが」
そう言って、先生は口元を手で隠し、くっくっくと笑った。どうやら自分で言ったことがツボに入ってしまったらしい。
「ともかく、ベンサムは、先ほどの一文、ようは『最大多数の最大幸福』の概念を知るにいたり、これを法の正しさを測る基準にすればよいのだと気づいたわけだ。実際、この功利主義の概念に照らし合わせれば、どんな法でもその正当性を明らかにすることができる」
「たとえば、ある男が殺人を犯して捕まり、法に基づき終身刑になったとする。このとき、我々は通常、彼は悪いことをしたからその罪を償うために刑務所に入ったのだと考えるわけだが、功利主義によるならば、その理由はまったく違う。彼が刑務所に入る理由は、彼を野放しにすることで発生する不幸の量―それはたとえば、また誰かが殺されたり、近隣住民が不安に思ったりすることで発生する不幸のことだが―そうした不幸の量よりも『彼が拘束されることによって発生する不幸の量』の方が少ないと見積もられたからにすぎない」
「つまり、彼を刑務所に入れた方が、社会全体の幸福度が高まると判断したからだということだ。法がひとりの人間を拘束する根拠は、ここにある。そもそも、法とは『社会全体の幸福の量を増やす』もしくは『不幸の量を減らす』ためにこそ存在するのであり、それを達成できる法だけが、法として正しいのだと言える。功利主義の考え方を用いれば、このようにひとつひとつの法の根拠を明らかにできるわけだ。おや、正義くんは、今の話、あまりピンとこなかったかな?」
「え!」
ちょっと気になることがあったので、一瞬考え事をしただけなのだが、先生は敏感にそれを察知して問いかけてきた。なんてことだ、うかうか考え事もできないぞ。
「あ、いえ、今の話はわかりましたし、なるほどなとも思いました。ただ別のことが気になったというか……、功利主義も、最大多数の最大幸福も、どういう話なのかわかったつもりですが、それが平等の正義とどう結びつくのかなあと」
「え、なんで? これ以上ないくらい平等でしょ?」と、相変わらず割り込んでくる千幸。
「いやいや、いい質問だ。きっと、正義くんが言いたいのはこういうことだろう。最大多数の最大幸福によって物事の正しさを決めるということは、乱暴に言うなら『可哀想な人に多めにあげましょう』ということで、ある意味、弱者を選んで優遇するシステムのようにも思える。ゆえに、そこを強調されると、どんどん平等という概念から離れていくのではないかと」
さすが先生。どう説明しようかと言いあぐねていたが、あまりに的確に言い当てられ、僕はこくこくと頷くしかなかった。